映画『エルヴィス』パーカー大佐の本当の死因とは?隠された私生活を解き明かす




「大佐の称号は嘘、サイコパス診断の過去」映画エルヴィスを殺した男『パーカー大佐』の本当の死因と晩年を紹介。日本では知られていない彼の秘密とは?不法移民、本名、偽名、肥満の秘密、サイコパス診断、ギャンブルで100億稼いだ逸話や秘密を明かしていきます。

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パーカー大佐の晩年と死因

パーカー大佐はエルヴィス・プレスリーが亡くなってから20年後の1997年1月20日にアメリカネバダ州ラスベガスの病院で84歳で脳卒中の合併症によって死亡した。

死亡診断書より抜粋
出生名(本名)
Andreas Cornelis van Kuijk
出生国
オランダ
国籍
オランダ

彼は1994年にメディアの前に現れたのを最後に自宅療養を行っていたが、この時点で糖尿病、痛風などの健康問題に襲われており重病人であった。それから3年後の1994年に自宅リビングルームで物音がしたため家族が様子を見に行ったところソファにうつ伏せになっているのを見つけて病院に搬送されるが脳卒中を発症していたことが判明そのまま死亡が確認される。

「なんだ、もっと苦しんで欲しかったのに」調べるうちに正直に言うと少しだけ残念と思ってしまった。プレスリーを早死にさせた嫌なやつだったパーカー大佐はあれから20年以上ものうのうと生き延び、彼のショーで得た大金で私腹を肥やして贅沢に暮らし続けたのかと思うと悔しいですね。唯一の救いは晩年パーカー大佐は重度の糖尿病と痛風で自宅療養で全く動けない日々を過ごしていたことぐらいですね。

それにしても少しだけ驚いたのは、彼のお葬式はさぞかし罵詈雑言の嵐だと思われたが、意外なことにある一族が彼に謝辞を贈ったことでファンたちを驚かせています。

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葬式でプレスリー家は彼を嫌ってはいない

「プレスリーを殺した男」として映画でも描かれており多くの人がパーカー大佐を嫌なやつだと思うだろう。自分勝手な都合でギャンブルで増えた借金を返すためエルヴィスをラスベガスに縛り付けて無理なステージ回数を強要しているかのように描かれ彼を嫌いと思ったファンは多いはず。

「きっと彼の葬式会場は警備員だらけの罵詈雑言のオンパレードだったに違いない」

そう思った人、そうあって欲しいと願う人も多かったはず。しかし、実際には不思議なことに彼への「誹謗中傷」を書いているのはメディアだけに止まり、一番被害を被ったはずのエルヴィス本人、その一族であるプレスリー家は彼に対して恨み言は全く言っていないのだ。

例えばこの記事(英文)では、パーカー大佐の葬儀はヒルトンホテルで少数の関係者、友人(エディ・アーノルド、サム・フィリップス)らが出席。元妻のプリシラ・プレスリーがエルヴィス・プレスリー財団を代表し、会場の多くの人にとってパーカーを要約する弔辞(ちょうじ)を寄せる

「エルヴィスと大佐は共に歴史を作り、世界は彼らの協力のおかげでより豊かに、より良く、そしてより面白くなったのです。そして今、私は財布を探さなければならない。ここに来る途中、チケット売り場がないことに気づいたが、大佐はきっと帰りに通行料を手配したに違いない」

プリシラ・プレスリーは彼のマネジメントによって確かにエルヴィスはキングになれたこと、しかしパーカー大佐は確かに守銭奴であったことを要約して伝えるが、確かに彼の功績を認める発言をしています。弔辞だから言葉を選んだだけでは?と思うかもしれないが近年でも同じように映画『エルヴィス』を作り上げるため、トム・ハンクスがパーカー大佐役の情報を得るためプレスリー一族と出会いますが、この時の様子をインタビューで

「この毒舌で安っぽいペテン師についての恐ろしい話を聞くことを予期していたんだ。まったく逆だ。プリシラもジェリーも、彼は素敵な人だと言っていた」さらに「エルヴィスはパーカーに50%を支払ってマネージメントしてもらうことを喜んでいた」と言っていたとも発言。

いや、それでも失神したプレスリーに対し「観客が待っている」と氷水に頭を突っ込ませてステージに立つことを強要した彼の非情な行動は契約のために合理的な判断だったのだろうか?彼のあの行為の強要でキングは早死にしたのではないか?と私のような映画だけでしか判断するファンは多いと思います。

しかしプレスリー一族は、彼の功績だけではなく、人柄も素敵な人と公式に発表しています。言いたいことはたくさんあります。映画でも、実際であっても”誰かを悪役に仕上げることは当のエルヴィス・プレスリーの栄光に傷をつける行為である”そう考えたプレスリー家はパーカー大佐への恨み節を抑えるどころか賞賛することで映画「エルヴィス」に携わる全ての関係者にとって良いことにしようと打算があるのだろうと少しは思います。

それでは今まで明かされてこなかったパーカー大佐の私生活について紹介していきます。彼はどうやって不法移民となり国籍を偽装したのか?肥満体型の秘密、ギャンブル癖について解説していきます。

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パーカー大佐の隠された私生活とは?

トム・パーカー大佐は自らの出自をあまり語らず謎が多かった。しかしプレスリーの名声が巨大になるにつれて彼に興味を寄せる人が増えたことで徐々に彼の私生活が明らかになっていく。

特に一番大きな出来事は、彼の姉妹であるネル・ダンカーズ=ヴァン・クイクプレスリーと一緒に映っているトム・パーカーに気付いたことである。実はパーカー大佐は幼少期はオランダ生まれであることを隠してオランダ訛りを南部訛りと偽り自身はウエストバージニア州のハンティントンで生まれたと言い続けていたことが偽装であることがわかったのだ。

現在ではパーカー大佐の研究者によって多くの伝記が出版されており隠された彼の出自について解き明かされてきたが、生前の彼の影響は強くプレスリーの死後もパーカー大佐が70代になるまで誰も彼の偽装を見抜くような調査をしていませんでした。

1920年 アメリカで不法入国

パーカーの生まれはオランダのブレダ市、オランダ人Andreas van Kuijk。彼は10代の頃に船でオランダからカナダへ、そこからアメリカのニュージャージー州ホーボーゲンに移動し劇中にもあった移動遊園地(サーカス)で「トム・パーカー」を名乗り働き音楽プロモーション担当として参加。

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1929年 入隊も”サイコパス”と診断?

1929年にトム・パーカーの偽名で米陸軍に入隊、2年間勤務後、1931年に再入隊するが、”休暇なしで欠席(欠勤?脱走?)”で逮捕されて数ヶ月間軍の刑務所で過ごす。

当時の陸軍は脱走兵などへ規則を破った隊員は寛大とは言えない対応をされており、彼は独房で過酷な状況のまま何ヶ月も監禁され、この時の監獄での経験が彼の精神状態に大きな打撃を与えたと言われています。

最終的に監獄からの釈放と同時に、陸軍病院に数ヶ月入院しそこで「精神病状態である」と公式に診断されています。回復後その年に除隊されます。grungeはこの時の状況から偉大な男のマネージャーを務めた男が、アメリカ入国以降あらゆる面で偽装と嘘を塗り重ね続けた経緯から、彼は”真のサイコパスだった可能性がある”と言っている。

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1930年 過度な肥満は”兵役逃れ”のためだった

アメリカ陸軍の身長と体重の基準

パーカー大佐は映画「エルヴィス」でエルビスと出会った時からすでに肥満であったのは、軍隊時代に前線送りにされないために軍の体調管理の規律や基準から逸脱した体重増加を計画していたためだと言われています

現在のアメリカ陸軍の入隊規則によると最低最高身長とそれに伴う体重が定められている、一応規則上入隊できる身長は身長は150-203cm。例えば平均的な身長より高い175cmの身長だと体重は79キロ以下でなければならないという規則があります。(入隊時の身長体重年齢で変わります)

しかしパーカー大佐は入隊後に300ポンド(136kg)以上に体重を増加させることに成功しています。この病的なほどに体重を増加したことで彼は前線送りを逃れたと言われています。

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1930年 子持ちアメリカ人マリーと結婚

1935年パーカーは巡行中に27歳のマリー・フランシス・モットと出会い結婚(マリーは6人兄弟の1人で、過去に2回結婚している過去)この結婚は子持ちのアメリカ市民と結婚することで”アメリカでの不法滞在をより強固に偽装するため”であると言われていますが、愛や打算以外の”何か”が2人の結婚につながったという明確な証拠は存在しません。

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1940年 ”大佐”の称号を政治家から貰う

パーカー大佐、パーカー大佐と言い続けられたら「ああ、彼は軍に入隊した経歴があって大佐にまで上り詰めたのだろう」と意識してしまうだろうがそうではない。彼は不法移民であることを隠して陸軍にいたことは事実だが、この時の階級は不明だが間違いなく普通の階級程度で大佐ではないことは確実だった。しかし彼は1948年ルイジアナ州知事から”選挙運動への彼の努力への報酬”として”大佐”の称号を授けられているんです。

なのでパーカー大佐は陸軍では大佐の地位に上り詰めてはいないけど、政治家のおかげで大佐の称号をもらっただけである。

1960年 本当の家族が来るも意地でも認めなかった

彼の家族がパーカー大佐がプレスリーと一緒に、しかも生きていることを喜びパーカーの兄弟の一人、アダム・”アド”・ファン・カイックは1961年4月にロサンゼルスにパーカーを一度訪ねている。パーカーは”内心”で弟を認め、プレスリーに紹介もした。1週間の滞在中、パーカーはアダム・ヴァン・カイックから、彼らの母親が3年前の1958年に亡くなったこと、1929年に父親が亡くなったことを聞くが彼は出自を公表しないことを決めていたためか、アダム・ヴァン・カイックが1992年に肺気腫で死亡した時もパーカーはオランダの生家を訪れることは一度もなかった(公式には)

1960年 ギャンブルで100億円稼いでいたが…

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パーカーの伝記本でも劇中でも語れているが、パーカー大佐はもともとギャンブル依存症であり、エルヴィスとの出会い1960年代から依存に拍車がかかり家族曰く「制御不能」状態であったと言われている。特に制御不能になった時期は私生活でも妻の健康状態の悪化、プレスリーのキャリアの低迷が同時にあった時期でもありよりのめり込んでしまったのだろうとも、プレスリーが亡くなった1977年の時点で彼の損失は100億円以上、全てカジノ・ヒルトンだけでの損失である。

彼のギャンブルの姿勢は異常で彼は一度カジノに訪れると12時間以上滞在し大金を掛けプレスリーから得た収益のほぼ全てをここに注ぎ込み、年間で1億円以上を注ぎ込み続けている。

1960年 エルヴィスの収益の50%を搾取していた

悪徳マネージャーとして名高いパーカー大佐の一番有名な話はエルヴィスのマネージャ代として当初エルヴィスの収益の10%程度の手数料だったはずが、徐々に50%もの法外な、いや、前代未聞の手数料を懐に収めていたことが判明。さらにパーカー大佐はエルヴィスを使用した場合に追加料金を請求する権利を持っていたためエルヴィスに入るはずの追加料金すらも手中に収めていた。

さらに、エルヴィスの人気が低迷、健康状態が悪化し始めていた1973年にパーカーは勝手にエルヴィスのレコーディング権利をわずか540万ドルで売却している。この売却によってパーカー大佐はプレスリーよりも150万ドル多く手中に収めているという・・・とんでもない行為を繰り返していました。

1979年 不動産全ての権利を剥奪される

エルヴィスが亡くなった後、元妻のプリシラ・プレスリーがエルヴィスの所持している不動産を調査した際、全ての不動産の収益がほとんどなくなっていたことに気が付きやっと明るみになる。キングの不動産の管理すらも任されていたパーカー大佐が利権を貪り全ての収益を自分の懐に入れ、ほぼ全てをギャンブルに使い果たしていたことが判明する。即座にパーカー大佐の持つ権利を剥奪する訴訟を起こし勝訴。全ての不動産への関与を禁じられてしまう。

1981年 多くの罪状で起訴されるも

元妻のプリシラ・プレスリーなど彼の関係者からエルヴィスに関わる数々の悪行に起因する犯罪行為を起訴されますが、彼は突然、刑事告発を遅らせるためにアメリカへの不法入国を認め、アメリカ軍がオランダ政府の許可なしに自分を入隊させたため、自分はオランダの市民権を失った被害者であ理、自分はアメリカ人でもオランダ人でもない。と発言、実際彼は最終的にアメリカ国民として帰化をしていなかったため、アメリカ国内で起訴されても自身には適用されないと考えての発言だったようです。

実際、彼の試みは成功してしまい、数多くの訴状を残したまま彼は1989年自宅で亡くなっているのを妻に発見されています。

まとめ:まだまだあるぞパーカー大佐の晩年話

驚いたことに映画『エルヴィス』は全てパーカー大佐の告白のような内容で進んでいくが彼の私生活については何も語られていないことが良くわかります。

意外だったのは「プレスリー一家はパーカー大佐を恨むどころか称賛している」という点です。あれから45年も経過していることを荒立てないようにという打算もある可能性もありますが、恨み節の一つも言わないことに驚かされます。

結局のところ彼はエルヴィスの手に入れるべき数多くの収益を全てギャンブルに注ぎ込んだまま亡くなってしまいました。まるで勝ち逃げでモヤっとしたのは私だけではないはず・・。

やっぱりクソ野郎だったパーカー大佐のお話でした。

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