アニメ『幾多の北』物語エンディングまでネタバレと感想「明晰夢のような作品」

グランプリ受賞したアニメ『幾多の北』はどんな映画なのか?難解な作品の物語エンディングまでのネタバレを紹介。実験的な描写が目立つ長編アニメーションで全編を通し意味のない流星のような不可解なエピソードが繰り返し描かれるだけに感じるが海外では絶賛され多くの賞を受賞した。皆さんも考えてほしい。この作品は何が優れているのか?を。

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アニメ『幾多の北』作品情報

劇場公開日
2021年11月6日(日本)
原産国
日本・フランス
(公式サイト)
言語
なし
日本語
別名
Dozens of Norths
製作会社
ヤマムラアニメーション(作品一覧
MIYUプロダクション(作品一覧

あらすじ

北はどこまでも孤独だ。ここには、すべての北がある。これは、私がノースで出会った人々の記録である。しかし、私の記憶は断片的で、まったく要領を得ない。今になって、私の努力は無に帰したのかと思い始めている。鈍い知覚が少しずつ形を変えていくことで、世界の存在を時折認識するようになっただけなのだ。

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スタッフ

原作
山村 浩二(出版月刊「文學会」)

アニメーション制作
山村 浩二
矢野 ほなみ
中田 あやか
山村 早苗

音楽
ウィレム・ブロイカー

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劇中で使用された曲

・左派(革命)
・舞台回し
・ブルジョアのワルツ(鍋ピアノによる)
・私はあなたと行きたくない(アンナとムルク)
・死んだ兵士の残酷歌
・オープニング
・スパルタクス
・アンナ
・マンモスホテル・ウィのスイートルーム
・アルトゥロ ウイ

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受賞歴

長編アニメーション・グランプリ:オタワ国際アニメーション映画祭
長編コントルシャン部門クリスタル賞:第61回アヌシー国際アニメーション映画祭
最優秀長編アニメーション作品賞:第13回ソフィア国際アニメーション映画祭 – ゴールデン・クーカー・ソフィア
長編部門審査員特別賞:第8回新千歳空港国際アニメーション映画祭
優秀賞:第25回文化庁メディア芸術祭
スペシャルメンション:第46回ザグレブ国際アニメーション映画祭・アニマフェスト
公式セレクション:第25回ブラックナイト映画祭
第44回モスクワ国際映画祭
第55回シッチェス国際映画祭

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アニメ『幾多の北』物語ネタバレ

タイトルコール。

””は実際に画面に表示される字幕である。

”北はどこの北も寂しい”

その名の通りここの”北”では人の顔が大地になりそこから人が生えている。

”これは私が北で出会った人たちの物語だ”

生えている人は二人、机に座る男と頭を雲にもたれて立ち尽くす女。その手にはハサミ。

”ただし記憶は曖昧で要領を得ない”

机の男の目は空でペンを持っているが紙はない。

”どれが夢の産物でどれがあなたものかはわからない”

抽象的な存在が大地の顔に針を刺し続けている。

”もはや区別がわからない”

”胸の鈍い痛みが唯一の拠り所だ”

机の男は死んだのか動かず突っ伏している。

彼の持っていた羽ペンをペンの半分ぐらいの大きさの二人の小人が持って立ち去っていく。

”不安はゆっくりと侵食していく”

羽ペンを持った小人の向かう先には月のような惑星。惑星にしては小さく不恰好だがそこには大小様々な穴が開いている。

”此処と彼方の狭間の引力に挟まれて身動きが取れない”

惑星から垂れる一本の糸で足を縛られ、惑星と大地との間にぶら下がっている男の声だ。

”釣り上げるつもりが吊り下がってしまった”

男はクルクルと回り続ける。足に手が届かないらしい。どうやら判断を誤ったらしい。反省をしているが彼は何もできない。

”彼にどのような慰みの言葉をかけるべきだろうか”

”袋から漏れないように常に動いている”

荒廃した土地だが、生物たちの集落がある。そこでは巨大な袋の中に入っている内容物を漏らさないことが彼らの大義である。よく見ると動き回る生物たちの姿は小さくなった袋そのものである。

”時の狭間で身動きが取れず絶望する透明な存在”

水の中に潜む怪物から切り離された女性は切り離され水面に浮かび上がる。水の中には歯が大量に浮かんでいる。女は意識を取り戻すことなくどこかに流され続ける。

”彼女に残された選択肢はそう多くはない”

再び机の男。羽ペンを奪われても手は何かを書き続けていた。羽ペンを奪った小人たちは立ち去るのではなく、ひたすら羽ペンを消費するためガリガリと擦り付けていた。

”見つかった秘密のカタツムリ”

男の座る机の裏側にはおびただしい数のカタツムリが繁殖していた。男がそれに気がつくとハサミを置いて女が男を掴むと机の裏側に移動させる。

”どうやってカタツムリを取ろうか”

一匹のカタツムリが地面に落ちると手足が生えどこかに歩き出す。

”先の見えない不安、先の決まっている憂鬱”

樹海のようになって湿った大地を羽ペンの男たちはガリガリと書き続けている。重くて削れているのか、意図的に削っているかは不明だが男たちはどこかに向かっているようだ。

”共に先に進まなければならない”

羽ペンの男たちは巨大な川に差し掛かる。巨大なベルに吸い込まれるウサギ。

コップの淵に立つ羽ペンの男たち。はそこで何度も雨に打たれ”タラタタタ”という歌を歌うつもりはなかったと何度も呟き何度も雨に打たれ続け幾年もコップの縁で過ごすと羽ペンをコップに差し込み立ち去る。

そこは病院らしい。

全裸の男が巨大なヘルメットをかぶって受診に訪れるが病院に見えたのはハリボテでその奥にある巨大な建物はどれほど大きいのか理解に及ばないほどに巨大だった。そこから伸びる二本の腕。

”人形の腕は空洞で操作するための人形がその中に手を入れ、またその人形の腕に別の人形が手に入れる。操作者はそうやって延々と奥に繋がっている”

結局その腕は演者の演者の演者の演者の・・と奥にいる何者かが操縦しているため全く機能せずウゴウゴと蠢くだけで何もできずにいる。

その屋上。

”飛べという声がする”

包帯姿の男は屋上から飛び降りようとするが、包帯は巨大なウサギの死体に絡まっているため飛び降りることができずにいる。

”第三の選択である階段を登ることを選ぶことは彼には難しい”

いつの間にか彼はいなくなっていた。飛び降りたのだろうか。

羽ペンの二人は骨を船代わりにして川を下っていた。男は蠢く手を前にして何もしない。ウサギの死体はそのままだ。

”内面のカオスがいくつもの無意味を生み出していた”

別の場所で石で作った異形の鋳型を作る男がいた。一心不乱に石に釘を打ち込み穴を開ける。何度も何度も繰り返し穴が空いた石が積み上がりそこは異形の生物の墓場のようにも見える。

座る男、反対側に歩く男、しかし互いに一枚の布をかぶっているためそれ以上進むことができずにいるが歩く男は諦めずにずっともがき続けている。その横を羽ペンの二人は歩き続けていた。

”夢の中で労働する人々”

何かをしている。

何かは不明。

だが労働をしているらしい。

労働の対価が振り込まれるらしいが管理者にあったことはない。ただそこにあることを続けるだけだ。これに何の意味があるのか知っている人はいない。何かが送り込まれ動き収穫し渡して歩くだけだ。

羽ペンの人が向かった先には人がいた。楽器を所持しているが演奏する気はなく、傘をもているが骨だけだ、意味があるようでない

”自分を騙すのが商売、感情を創作する”

なるほど。わからない。

欲しがる人。吊るされる人。

”自分の五感が操作できるのならその見聞きしてきたもは本物なのだろうか?”

何度も何かを繰り返す人々、それぞれ何かが欠けているようだが本質は見えない。

”思い出よのよものをたくさん集めているが、それは彼の歴史とは何も関係はない”

その奥にはゴミでできた巨大な球体の建造物がそびえたっている。その中には一人の男がいる。彼のことだろう。羽ペンの二人は彼の建造物のために羽ペンを拾ってきたようだ。

”寒さが増してきた”

港で寂しく座っている老人と少女。二人の関係性はわからないが、壊れた灯台に向かい何かを運ぶ二人の男を見て老人が呟く。

”どれほど語られなかったことがあるか?”

”関わってしまうと灯台に行くことになる”

少女の体がポツポツと光り始める。

少女の体はもう長くはもたないらしい。老人は語る。

”失ったフレーズを探す旅”

彼らがふるわす音楽が私の体を奮い立たせる。

目の前を刹那に過ぎ去っていく現在。

”苦しみだけが広がる”

男の苦しみは終わったのだろうか。

羽ペンの物語は終わっていないようだ。二人目の前に現れた電車に乗ると車内は混み合っていた。

”私と世界はちょうど良い大きさ”

”北は同時にいくつも存在し、私の感情をいつも停滞させる。この北での継続が私にとって希望でもあり苦悩でもある”

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まとめと感想「意味はあるのだろうか」

宮沢賢治の読みづらい現代語訳されていない古い小説を読んだようだ。意味がよくわからないまま謎の詩的な言葉が続き、その背後で意味のあるようなないような、何かが起きているのを延々に見ている。

誰かの冒険のようで、終わりのようで日常のようでもある。

最初に彼は夢現だと言っていたがこれは夢なんだろう。

そう思わないと頭が混乱して鬱がひどくなりそうにある。

ネタバレに書いてある描写が全てではないが意味がわからないと思う。だが劇場でこれを見た私だって意味がわからないのだ。

だからこそこの作品がなぜ世界で賞賛され受賞しまくっているのか、全く理解できないのだ。

せっかくなので公式サイトで批評家からのコメントがあったので引用しておく。この作品を評価する人の表現も難解で難しい。


「分散状態」
… 『幾多の北』は筋書きに乏しく、本質的には旅であり、アニメーションの実験である。芸術作品として、この映画は深く成功している。物語として、常に着地点を得ているかというと、そうとは言い切れない。達成しようとしていることが的を得ているので、必ずしも不完全ではないものの、多くの人がもっと深みを求めてしまうかもしれない。とはいえ、観客に冷たい印象を与えることが、この映画の目標であることは明らかだ。この作品は、不安と混乱した精神状態を、優れた映像表現で表現している。この映画を表現するのに最適な言葉は「分散状態」である。
『幾多の北』は、監督のビジョンを最も印象的な方法で活かそうとしている。視覚的にも印象的な映画で、多くのユニークなイメージやシークエンスがある。その実験的なアニメーションスタイルは、映画の物語面では方向性に欠けるように感じられるものの、決して衝撃的ではない印象だ。(抜粋)
KML keithlovesmovies | OIAF 2022: Dozens of Norths Review | ブレナン・デュベ | 2022.09.25 | カナダ
感覚の世界とエコシステムを描く
観客の感覚を刺激する映画である。ストーリーテリングな境界線と構造を打ち破り、作中のイメージには一貫した創造的なプロセスがあり、感覚の世界とエコシステムを描くことに成功している。創造性と感覚、詩的な映像のすべてが美しく結びついた作品だ
長編アニメーション部門グランプリ・審査員評 | 第46回オタワ国際アニメーション映画祭 | 2022.09.25 | カナダ

盲目の作家がペンを持ち、母子らしきものに運ばれて風景の中に消えていく。その後、老人とその孫娘が海に向かってさまよい歩いているのが見える。孫娘と、その前に横たわる女性、この2人だけが顔を見せることになる。他は?顔のない死体。あるいは身体の一部が、ワイヤーで大地に縛られ、まるで飛び去るかのように、浮遊し、蒸発するように、世界の最も基本的な力である引力がもはや支配しない世界で。顔もない、中心もない。上も下も、左も右も、北の発想のための自由な宇宙の楽譜の儚い音符となる。

…顔もなければ、中心も
これは、山村浩二のドローイングを探求する上で、考えられる一つの記述の道筋に過ぎない。カメラは私たちのためにゆっくりとドローイングを描き、私たちはどんな細部にも立ち止まり、自分なりの関連付けを行うことができる。『幾多の北』は、フレームに収められない「生きている」絵画でできている。「生きている」というのは、壮大でほとんど静的な絵画の中に散在する生命の衝動をアニメーションが担当しているからである。アニメーションは、ゆっくりとしたカメラの動きに比べて、広大な森の風景の中で震える木の葉のような、小さな局所的な振動のように見える。物や人物の多重力の吊り下げは、しばしば写真のフリーズフレームのように表示され、風景の魅惑的な(あるいは呪われた)不動感を強めている。山村は、アニメーションが非力であればあるほど、より多くの結果が生まれるという、苦悩の巨大な宇宙的静止フレームを描いているように見える。小さなジェスチャーが大きなジェスチャーになる。


…まさに喪失と後悔について。山村浩二の『幾多の北』は、無意味の蛇行を探求し、人間の苦しみを表現する十分な余地を与え、メランコリーの螺旋に身を委ねられるだけの連想と断絶を与える、素晴らしい招待状である。少なくとも、この言葉を読み、理解し、感じ、楽しむことができるくらいには、このメランコリーを自分自身で探求し、その中に深く入っていこうという誘いなのです。「この憂鬱はささやかな抵抗か」
FILMEXPLORER | 文:ジュゼッペ・ディ・サルバトーレ | 初出: 2022.09.10 | スイス

http://www.yamamura-animation.jp/dozensofnorths.html

これ理解できた人いる?

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