
「日本人こそ観るべき必修作品」映画『MISHIMA』の結末あらすじネタバレと海外の感想評価をまとめて紹介。1985年カンヌ映画祭で芸術性への貢献賞を受賞したポール・シュレーダー監督制作の三島由紀夫の人生と死を描いた傑作解説。IMDb 7.9/10、RT 79%驚異的な高評価も納得の作品に仕上がっている。
「ペンと剣が交わる時、人生は作品となる」1985年に公開されたポール・シュレーダー監督の伝記映画『MISHIMA』のあらすじ結末までの詳細ネタバレ解説と海外での感想評価をまとめて紹介する。本作は日本の著名な作家・劇作家ユキオ・ミシマ(三島由紀夫)の波乱万丈な人生を、彼の最期の日である1970年11月25日を軸として、複数の時間軸から描いた異色の伝記映画だ。
ジャンルは伝記ドラマで、制作国はアメリカと日本の共同制作。フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスが製作総指揮を務め、音楽をフィリップ・グラス、美術・衣装をエイコ・イシオカが担当した。主演はケン・オガタがミシマを演じ、ナレーションはロイ・シェイダーが務めている。
本作は単なる伝記映画ではなく、ミシマの人生を四つの章に分けて描く実験的な構成となっており、彼の著作『金閣寺』『京子の家』『馬賊』の場面をミシマの実生活と重ね合わせることで、現実と虚構、生と死の境界線を揺さぶる革新的な映像体験を実現している。カンヌ国際映画祭では芸術性への貢献賞を受賞し、映画史に残る傑作として高く評価されている。
本記事では、映画『MISHIMA』の結末まで含めた完全ネタバレを掲載している。以下のコンテンツは映画本編の重大な展開や結末に関する詳細なネタバレを含んでおり、映画館で鑑賞してから読むことを強く推奨する。
『MISHIMA』物語結末ネタバレ
ここから先は『MISHIMA』の最重要となる展開とラスト結末を含む完全ネタバレとなる。映画館での鑑賞後の参照を推奨する。本作は1970年11月25日のユキオ・ミシマの最期の日を中心軸に据えながら、彼の幼少期から成人期へと至る人生の軌跡を、彼自身の著作の映像化とともに描き出す壮大な構想の映画である。
1: 美 ”金閣寺”
1970年11月25日の朝、三島由紀夫(ケン・オガタ)は目を覚ますと鋭い眼光のまま凛々しく軍服を身にまとう。
しかし「生まれて以来、自分はこの世に存在していることに矛盾を感じていた。その矛盾を解決するためにさまざまな文学や戯曲を発表してきたが、言葉には限界がある。だからわたしは違う方法で表現することにしたのだ。」
ブリーフケースには日本刀、日本国旗などさまざまなものを入れ閉じると、部下の同志に準備は問題ないか確認をすると、三島はメディアに一報入れると外に出ていく。
歩きながら三島由紀夫は幼少期を思い出す。幼少期、三島由紀夫は祖母に引き取られると、外を見ることすら禁じらたこと。三島由紀夫はまるで女のようだと言われるほどに虚弱体質だったこともあり、彼の身を案じてのことだったとしても彼の中に刻み込まれた身体的劣等感はいつまでも消えることはなかった。祖母は裕福で三島由紀夫を演劇や歌舞伎を見て歩き回ることで、彼の感性を磨き続ける。学習院を出る頃、死を悟った祖母は三島由紀夫を母の元に返す。
学習院時代、下界と断絶していた三島由紀夫は人とのコミュニケーションを取らなかった経験から『金閣寺』の世界を生み出す。カラフルで幻想的な映像で描かれる金閣寺の世界、吃音に苦しむ青年が、金閣寺の圧倒的な美しさに直面し恐怖する。
吃音の青年は友人のおかげで女学生と出会い性交渉に及ぶまでに至るも、金閣寺の影響で自身の矮小さを顧みてしまい触れることもできず女学生は呆れて帰ってしまう。
金閣寺の完璧な美の前では、全てが矮小となり彼の自尊心は完全に砕け散り、金閣寺から逃れ自由になりたいと感じた青年はついには金閣寺に火をつけることで、自分の存在を証明しようとするのだ。
この場面はミシマ自身の美学への執着と、それが生み出す破壊衝動を象徴している。
幼少期、西洋美術の美しい肉体画を見た三島由紀夫は、強烈な刺激、そして奇妙な劣情が吹き出し右手を止めることができなかったのだ。
青年期、警告が鳴り響く中、防空壕に入る手前に夜空を振り返った三島は「花火のように生きよう、だからわたしはペンネームを三島由紀夫にしたのだ」と語る。しかし当時の三島由紀夫の文章は酷評されていた。
徴兵検査で、三島由紀夫は咳を続け虚弱さを示す症状を意図的に誇張し、軍への徴募を逃れる。しかしこの行為は後々、三島由紀夫の中に深刻な羞恥心と内的矛盾をもたらすことになる。彼は自分の行動を完全に納得することができず、その葛藤が生涯彼を苦しめることになるのだ。
1970年11月25日、部下の運転する車に乗った三島由紀夫は、これから起きる行動について、責任は自分にあること、そして誰も殺生をせず、お前らは無事に生きて帰ることを厳命すると、車は動き出す。
2: 美術 ”鏡子の家”
成人となった三島由紀夫は、多くの作品を執筆することで、日本の文壇に君臨するようになる。彼の著作は次々と出版され、戯曲を書けば満員御礼、日本文学の一大勢力となっていく。しかし彼の成功の代償は大きかった。自らが創造した美的理想と、現実の自己とのギャップが、彼の精神を蝕んでいくのである。
成人へと成長した三島由紀夫はとある同性愛者とのダンスの際に「女のようにつかみどころのない体だ」と三島由紀夫の痩せすぎた肉体を指摘されてしまう。赤面した三島由紀夫は黙って立ち去ってしまう。なぜ逃げたのか?と尋ねられた三島由紀夫は、自身の肉体への憎悪だと答える。
ハワイで太陽の力強さ、ギリシャの環境は自己嫌悪との脱却へと至る精神を手にいれた三島由紀夫は、筋力トレーニング、舞踏、武術の習得──彼は自身の肉体を、一つの芸術作品として完成させることに執念を燃やす。男性らしさ、肉体美、筋骨隆々とした姿が、彼の理想となる。かつての貧弱な自分から完全に決別するため、彼は自分の体を徹底的に改造していくのである。男の美しさへの願望は女とは違う、死への願望なのだ。
三島由紀夫は自身の精神と肉体の脱却、蛹から蝶が生まれるように、同性の美しき青年たちとの関係に惹かれ『鏡子の家』を生み出す。劇中の青年たちはサドマゾキズム的な関係性を求めるようになり、やがて破壊的な愛情へと変わり自傷行為にまで至る。ガラスの破片で互いの身体を切り傷つける二人の姿は、美しさと破壊、愛と憎しみが不可分であることを象徴している。
3: 行動 “奔馬”
「40代では美しく死ぬことはできない。ならば遮二無二に生きる以外の方法はないのだ」
戦後の日本が経済的繁栄と物質主義へと向かっていく中で、ミシマは深刻な失望を感じるようになる。彼が理想とした日本──天皇を頂点とした武士道の精神、古き良き伝統、そして国家の栄誉──が、西洋化の波に飲み込まれていく様を目撃するのだ。その怒りと絶望感は、やがて政治的行動へと転化していく。
車の中で同志たちと歌を歌う若者たちは不安の表情を浮かべるも三島由紀夫の表情は穏やかなもので、ついに車は自衛隊市ヶ谷駐屯地に到着する。
『奔馬』で描かれるのは、若き国家主義者たちの反政府クーデター計画である。彼らは左翼勢力を打倒し、帝国制度を復活させるため、武装蜂起を企てるのだ。しかしその計画は失敗に終わり、指導者たちは自決を遂行する。この場面は三島由紀夫自身の運命を先取りしたものであり、彼の思想がいかなる過激さへと到達しているのかを鮮明に示すのである。
三島由紀夫は私的な軍隊「盾の会」(タテノカイ)を組織する。その構成員は美しき青年たちであり、彼らは古びた軍装を身にまとい、三島由紀夫のもとで訓練を重ねるのだ。彼にとって、この私的軍隊は単なる政治運動ではなく、理想的な男性性と愛情、そして美学を具現化したものであった。
結末ネタバレ・4: 文武両道
1970年11月25日の朝、三島由紀夫は盾の会のメンバーである四人の青年たちと共に、自衛隊の駐屯地へ向かう。その目的は自衛隊の指揮官を人質に取り、駐屯地の兵士たちに決起を呼びかけることだ。彼は演説台に立ち、青年たちに向かって熱烈な演説を行う。「天皇のために起ち上がれ」「伝統を取り戻そう」「古き日本を復活させよう」──彼の声は兵舎に響き渡る。
しかし兵士たちの反応は、三島由紀夫が想像していたものではなかった。彼らは笑い、嘲笑し、冷笑する。自分の言葉が完全に拒否されたことを悟った三島由紀夫は、その時初めて自分の人生の虚しさを直視させられるのだ。ペンと剣の融合を目指し、生涯をかけて築き上げた世界観が、現実の兵士たちの眼差しの前では意味を失ってしまう。その瞬間、三島由紀夫は自分の道を決定する。
指揮官の部屋へ引き返した三島由紀夫「切腹」を遂行することを決意する。同志の盾の会メンバーの一人が剣で彼の首を切ることが約束される。三島由紀夫にとって、この死は単なる自殺ではなく、自らの美学を最終的に実現する一つの芸術作品であり、自分の人生という作品に最終的なピリオドを打つ必然的な結論なのだ。
映画は彼の最期の瞬間を直接的には映さない。その代わり、スクリーンは日本国旗を連想させるイメージで満たされ、ナレーションが静かに語られる。三島由紀夫が死を遂行する時、彼の目には何が映っていたのか。その最期の瞬間、彼は自分の人生という「作品」が完成したと感じていたのではないだろうか。
三島由紀夫の死後、映像は再び彼の人生の様々なシーンをフラッシュバックさせる。病弱な少年時代から、筋骨隆々とした青年、そして情熱的な作家へと変わっていく過程が、映画全体を象徴するように映し出される。美の追求、肉体への執着、伝統への執念、愛と死への渇望──これらすべてが一本の線につながり、必然的にこの結末へと向かっていくのだ。
映画『MISHIMA』は、一人の男が自らの人生を、いかに完全な「作品」として構成しようと試みたのかを示す。彼にとって、生きることと書くことと死ぬことは不可分だったのだ。その極端さ、その執念、その美学は、多くの観客に賞賛と恐怖の両方を与えるのである。
参考:IMDb – MISHIMA: A Life in Four Chapters
海外報道から見る「日本で未公開の理由」とは
『MISHIMA』は公式には日本で禁止されていないが、40年間にわたって日本国内で一度も上映されたことがない。2025年10月、三島由紀夫の生誕100周年を記念する特別プログラムの一環として、東京国際映画祭でようやく日本初上映されることになった。 ‘Mishima’ Was Unofficially Banned in Japan, but the Tokyo Film Festival Will Premiere It There This Fall
🔴 日本での「非公式な禁止」の理由
ポール・シュレーダー監督によると、当時、三島は日本の右翼のアイコンであり、「日本の右翼保守派の要素が怒った」という。彼らにとっては「アメリカ人(外国人)で日本の敵である者が、日本民族主義の超右翼の英雄についての映画を作ること」が受け入れがたかったのだ。
💼 映画製作段階での圧力
映画製作中、右翼勢力は制作に関わっていた東宝に対して、プロジェクトから撤退するよう強い圧力をかけた。さらに、三島の未亡人・平岡ヨーコ氏は、フランシス・フォード・コッポラのZoetrope Studiosに売却した彼女の夫の小説の映画化権を返却するよう要求するプレッシャーを受けた。
📚 法的禁止ではなく「暗黙の了解」
『MISHIMA』は公式には日本で禁止されていないが、「事実上の『非公式禁止』をもたらす口頭での同意」が存在していた。
🎬 2025年の歴史的転機
2024年(実現せず)の試みから1年経った2025年10月1日、『MISHIMA』は遂に東京国際映画祭で三島由紀夫の生誕100周年を祝う特別プログラムの一環として日本初上映されることが公式に発表された。 ‘Mishima’ Was Unofficially Banned in Japan, but the Tokyo Film Festival Will Premiere It There This Fall
🔑 シュレーダー監督の証言
シュレーダー監督は「15年待てば(日本は)何を考えるか分かるだろうと言われたが、それ以上時間が経った今でもまだ何を言うべきか分からない。三島は非テーマ化してしまった」とコメントしており、日本社会における三島という存在の複雑さを指摘している。
つまり、『MISHIMA』が40年間日本で上映されなかったのは、法的な禁止ではなく、右翼勢力による政治的圧力と、それに基づく「暗黙の了解」による実質的な上映禁止であったということが、海外メディアの報道から明らかになっています。
『MISHIMA』作品情報
本作のポール・シュレーダー監督と主演俳優ケン・オガタの経歴について紹介していく。映画『MISHIMA』は1985年のカンヌ国際映画祭で大きな注目を集め、その芸術的価値によって多くの映画評論家から高く評価された作品である。本セクションではこの傑作を支える主要人物の経歴と代表作を詳しく説明する。
興行収入と制作背景
『MISHIMA』はフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスによって製作された非常に野心的な映画である。制作予算は1000万ドルという巨額であったものの、アメリカ国内での興行収入は約50万ドルに留まり、商業的な成功を収めることはできなかった。しかしながら、この映画は映画芸術の歴史の中で最も重要な伝記映画の一つとして認識されるようになり、その芸術的価値は時間の経過とともに一層評価が高まっている。
ポール・シュレーダー監督情報
ポール・シュレーダーは1946年7月22日生まれのアメリカの映画監督・脚本家である。彼は『タクシー・ドライバー』(1976年)と『ラッシング・ボール』(1980年)の脚本で知られており、マーティン・スコセッシとのコラボレーションで映画史に残る傑作を生み出した。デリクソンは映画製作における「孤独な男性」というテーマに執着しており、社会から疎外された人物が自己実現のために極端な行動へと向かうプロセスを繰り返し描いている
『MISHIMA』は彼にとって監督としての最高傑作であり、本人も「スクリーンライターとしては『タクシー・ドライバー』だが、監督としては『MISHIMA』が最高傑作だ」とコメントしている。シュレーダーは脚本だけでなく映像構成にも優れており、単色と鮮やかなカラーを巧みに組み合わせることで、複雑な心理状態を視覚的に表現することに長けている。
主演ユキオ・ミシマ役「ケン・オガタ」情報
ケン・オガタは日本の著名な映画俳優で、その沈黙の中に内面の葛藤を表現する能力で知られている。彼は『復讐するなら今のうちに』(1979年)などで既に日本映画界で認識を得ていたが、『MISHIMA』での演技によって国際的な名声を確立することになった。オガタはシュレーダーの指示に従いながらも、ミシマという複雑な人物像を冷徹かつ情熱的に表現することに成功している。
映画におけるミシマの表情は極めて控えめであり、声のナレーション以外では彼の感情を直接的には表さない。この演技の選択が、映画全体の緊張感を高め、観者はミシマという人物の深層心理を自ら想像せざるを得ないようになっている。オガタは後にロット・イシオカの衣装とフィリップ・グラスの音楽とともに、映画全体の芸術性を高める重要な要素となっているのだ。
海外の感想評価まとめ
『MISHIMA』は全世界の映画評論家から大きな関心を集めており、複数の評価サイトで様々な見解が交わされている。その評価は極度に高い肯定的な意見から、辛辣な批判まで様々であり、映画評論家たちの間でも議論が続いている。以下、三大レビューサイトでの反応を見ていこう。
IMDb(総合評価:7.9/10)
① シュレーダーが『MISHIMA』で成し遂げた最大の功績は、一人の日本の作家の人生を、単なる時系列の記録ではなく、四つの異なる様式で構成し直すことで、ミシマという人物の複雑な内面と美学観を映画的に再現したことにある。黒白のフラッシュバック、カラフルな小説の映像化、そして最期の一日という現実的な時間軸の三つが完璧に交錯する構成は、映画芸術の最高峰を示している。
② ケン・オガタの演技は極めて禁欲的でありながらも、その抑制された表現の中に深い精神的葛藤が宿っている。フィリップ・グラスの音楽スコアは映画全体を支配し、観者を一種の催眠状態へと導く。この音と映像の融合は、映画史でも稀有の体験をもたらすのだ。
③ エイコ・イシオカの美術・衣装設計は、映画全体の美的完成度を決定付けている。彼女が創造した舞台美術は、リアリズムを超越した一種の劇的空間として機能し、ミシマの内面世界を視覚的に具現化している。
④ ジョン・ベイリーの撮影は、色彩の使い方において極度に洗練されている。黒白とカラー、派手な原色と淡いパステルカラーの組み合わせが、登場人物の心理状態を巧妙に表現しているのだ。
IMDb – MISHIMA: A Life in Four Chapters
Rotten Tomatoes(批評家:79% / 観客:63%)
① 『MISHIMA』は伝記映画というジャンルの常識を破壊する作品として高く評価されている。シュレーダーが採用した実験的な構成──複数の時間軸とフィクション的表現の混在──は、ミシマという人物の複雑さを従来の伝記映画では不可能な方法で表現することに成功している。
② 映画の視覚美学は他に比肩するものがないほど洗練されている。映像の色彩選択、フレーミング、編集のテンポに至るまで、すべてが極度に計算されており、その計算の緻密さが却って作品に詩的な深さを与えている。
③ フィリップ・グラスの音楽スコアは映画の感情的基調を完全に支配する。その反復的で瞑想的な音の流れは、ミシマの執念的な思考パターンを象徴するものであり、観者の意識を映像と完全に同期させる。
Rotten Tomatoes – MISHIMA: A Life in Four Chapters
Metacritic(総合評価:73/100)
① 『MISHIMA』が多くの批評家から高い評価を受ける理由として、その複雑な叙述構造の完璧な実行がある。映画は登場人物の人生、彼の著作、そして彼の思想のすべてを同時に描き出しながらも、観者が迷子になることのないよう精密に設計されている。
② しかし一部の批評家からは、映画がミシマという人物をその神話のままに受け入れているのではないか、という疑念も提示されている。つまり、シュレーダーが批判的距離を保たず、単に崇拝的な態度でミシマを描写しているのではないかという指摘である。
③ 映画の冷徹さと美的追求が完全に融合していることは、この作品の特異性を示すものである。感情的な温かみを拒否し、論理的で禁欲的な美学を徹底することで、シュレーダーはミシマという人物の本質に迫ろうとしているのだ。
Metacritic – MISHIMA: A Life in Four Chapters
批評家レビュー
映画『MISHIMA』は多くの著名な映画評論家から個別の分析と評価を受けており、その複雑な構成と革新的な表現方法について様々な角度からの考察がなされている。以下、主要な映画評論媒体による詳細なレビューを紹介する。
Roger Ebert 高評価
ロジャー・エバート氏「私が見た伝記映画の中で最も型破りで、かつ最高傑作の一つ。」
2007年にエバートは『MISHIMA』を彼の「グレート・ムービーズ」リストに追加し、それは映画を見直し再評価するという彼の最高の敬意の表現であった。シュレーダーが成し遂げた「簡潔な執筆と構成の勝利」は、複雑すぎるほどの人物像と多元的な時間軸を完璧に統合させている。映画はミシマの人生を三つの層で描く。第一に、黒白フィルムで映し出される彼の幼年期から青年期への成長。第二に、彼の著作の映像化による彼の思想の視覚的表現。第三に、彼の最期の日における現実的時間軸。これら三つの層が映画全体において完全に調和しており、一つとして不必要な要素がないのだ。エバートは特にシュレーダーの構成手法を称賛し、その「非正統的な構造が完璧な明晰性で展開し、その論理が自ら顕現していく」プロセスを高く評価している。
評価点 映画の視覚的完成度、複数の時間軸と表現様式の完璧な融合、そしてシュレーダーの脚本の洗練性が高く評価される。さらに、ミシマという実在の人物を、彼自身の著作を通じて新たに解釈する手法が、伝記映画というジャンルの可能性を拡張したことが重要である。
批判点 映画の商業的失敗を指摘する声もある。その実験的構成と知的な要求度の高さは、一般的な映画観客の理解と共感を得ることを困難にしており、だからこそこの作品は映画のより深い愛好家にのみ到達する作品となっているのだという指摘である。
(Roger Ebert – MISHIMA: A Life in Four Chapters)
Time Out(映画評論) 好評
クリス・ピーチメント氏「これ以上に素晴らしいものは存在しない。」
ピーチメント氏はシュレーダーが『MISHIMA』で「自らが探求し続けた暴力的な変身」を最終的に成し遂げたと評価している。映画は「最後の剣のような儀式的な鋭さと美しさ」を全編にわたって保持しており、その美学的一貫性は他に比較するものがないほど徹底している。シュレーダーはミシマという人物の生と死、美と破壊、ペンと剣の葛藤を、映像と音、色彩と白黒の対比によって完全に具現化している。特に注目されるのは、派手で鮮やかな小説の映像化部分と、抑制された黒白のフラッシュバック部分の対比である。この対比によって、ミシマの理想と現実、想像と実際の生との間にある深い溝が視覚的に表現されているのだ。
評価点 映画の美学的一貫性、その儀式的な映像構成、そしてシュレーダーが映画を通じて追求する「生と死の融合」というテーマの完璧な実現が高く評価される。また、フィリップ・グラスの音楽とエイコ・イシオカの美術設計が、映画の総合芸術作品としての完成度を決定付けていることが強調される。
批判点 一部の批評家からは、シュレーダーがミシマという人物に対して批判的距離を保つことなく、その人物の価値観をそのまま受け入れているのではないかという疑問も提示されている。つまり、映画がミシマの右翼的思想や暴力的な最期を美化しているのではないかという倫理的な懸念である。
(Time Out – MISHIMA: A Life in Four Chapters)
Variety(映画評論) 検討的
ピーター・デブルージュ氏「複雑さと美しさが交錯する実験的伝記。」
ヴァラエティ誌の批評家デブルージュは、『MISHIMA』の構成の複雑さと野心的性格を認めながらも、その野心が常に成功しているわけではないと指摘している。映画は一つの主要なテーマ「美学と政治的行動の調和」を追求し続けているが、その追求プロセスにおいて、時に説明的になりすぎたり、時に抽象的になりすぎたりする。シュレーダーの構成は「奇妙に緊密であり、その緊密さはほぼ息苦しいほどである」とデブルージュは評価する。しかし同時に、映画はその緊張感を解放することなく、最後まで観者を精神的な緊張状態に置き続けるのだ。
評価点 映画の視覚美学、特にジョン・ベイリーの撮影による色彩表現の完成度が高く評価される。また、複数の時間軸を巧みに編集することで、ミシマという人物の心理的状態を視覚的に表現した手法が革新的であると評価される。
批判点 映画の複雑な構成が、多くの観客にとって理解困難であり、その結果として映画がエリート向けの作品になってしまっているという批判がある。また、ミシマの政治的立場や行動に対して、映画が充分な批判的視点を保持していないのではないかという懸念も提示されている。
(Variety – MISHIMA: A Life in Four Chapters)
個人的な感想評価
三島由紀夫の本を読もうとしたことがある。が、私にとって難解で読みづらいと感じてしまい諦めた印象が強い。Wikipediaで幼少期の愛読書は百科事典と広辞苑でゲイで、切腹した人、という印象。怒られるかもしれないが最初は三島由紀夫と聞くと鳥肌実が出てきてしまう。そんな印象を持っていた。
偶然アメリカでは普通に視聴できる「MISHIMA」が日本で未公開だったと聞いて興味を持ち視聴してみたが、驚いた。なんだこの完成度は、映像の美しさ、美術センス、構成、脚本、演技、音楽、日本語によるナレーション、全てが調和して最後まで流れるように見終えてしまった。私は緒方拳ナレーションバージョンで、このナレーションのおかげで三島文学の片鱗を少し垣間見て理解できた気がして嬉しい。
ただドキュメンタリー風にせず、彼の葛藤や文学、日本への憂いやエネルギーなど半生を代表作金閣寺などをセットで演出することで、めちゃくちゃ分かりやすい内容になっている。なぜこの作品が生まれ、彼は何を思っていたのか?日本を憂いて割腹自殺してしまう彼の到着点に何を見たのか。わたしでも納得できた素晴らしい作品だった。クソみたいに疲弊して枯渇し始めている日本人にとって必修科目ではないだろうか。
冒頭、緒方拳演じる三島由紀夫が鏡を見た時に、後でわかるのだが、パイロットの格好をした理想的な自身と矛盾する現実の卑下した自身がフラッシュバックするシーンから引き込まれ、次にいきなり舞台に建設された幻想的な金閣寺のセットの上でのやり取りに、なんだこれは?美しいぞ、面白いぞ、セリフが分かりやすいぞ、なんだこれ?なんだこれ?面白いな?とシンプルに感動。そして現代の三島由紀夫、幼少期の三島由紀夫から青年期の三島由紀夫まで、それぞれの転換期によって生み出されたアイデンティティと傑作たち、そしてそれら作品への愛と苦悩と矛盾と熱意を緒方拳ナレーションで分かりやすく説明してくれるため、するすると川を静かに下るかのように物語が頭に入り込んでくる体験をぜひしてほしい。
わたしのように三島由紀夫のことを何も知らなくても、映画に感動するはずだ。
あなたが結末の三島由紀夫が見たフラッシュバックで涙するかどうかが気になる。
日本語ナレーション付きで、全員日本人が日本語で演じてくれるので、この輸入版で問題なし。
必見。
複数の海外レビューを総合的に検討すると、『MISHIMA』はまさに映画芸術における究極の試み、すなわち一人の複雑な人物の人生全体を、伝統的な伝記映画の枠組みを完全に超越する方法で表現した傑作であることが明白である。
ポール・シュレーダーの構成力は、ミシマという実在の人物を、彼の著作、彼の思想、そして彼の最期の決断という三つの層において同時に描き出すことで、従来の伝記映画では不可能であった深さと複雑さを実現させている。
映画の最大の特徴は、緒方拳の禁欲的でありながら深い演技と、フィリップ・グラスの執拗に繰り返される音楽スコアが完璧に融合することで、観者を一種の瞑想的状態へと導くという点である。ジョン・ベイリーの撮影も同様に完璧であり、色彩の選択一つ一つが登場人物の心理状態を表現するために計算されている。エイコ・イシオカの美術設計は、リアリズムを超越した劇的空間を創造し、映画全体が一つの完成された芸術作品として機能している。
一方、映画が完全に成功しているかどうかについては議論の余地がある。その実験的構成と知的難度の高さは、一般的な観客から遠ざかってしまう原因となっており、また映画がミシマの政治的思想に対して充分な批判的視点を保持しているかどうかについても、評論家たちの間で意見が分かれている。しかしこれらの「欠点」であると指摘される要素は、実はこの映画の根本的な特徴であり、その徹底した美学主義と知的厳密性こそが、映画をシュレーダーの最高傑作たらしめているのである。
まとめ
『MISHIMA』は、通常の伝記映画の意味での「成功」を超越した、映画芸術の可能性を拡張させる傑作である。本作の核となるテーマは、一人の人間がいかにして自らの人生を一つの完成された「作品」へと変換していくのか、そしてその過程において生じる美と暴力、理想と現実、精神と肉体の間にある矛盾と葛藤についての問い掛けである。
シュレーダーは伝統的な時系列的叙述を放棄し、代わりに複数の時間軸と表現様式を同時に展開させることで、ミシマという人物の内面的複雑さを映像化することに成功している。黒白で映し出される幼年期から成人期への変化、カラフルで幻想的な小説の映像化、そして最期の一日における現実的時間軸──これら三つの層が映画全体において完全に統合され、観者は一つの統一された作品を体験するのである。
フィリップ・グラスの音楽、エイコ・イシオカの美術、ジョン・ベイリーの撮影、そしてケン・オガタの演技が完璧に融合することで、映画は単なる映像作品を超えて、一つの総合芸術作品としての地位を確立している。1985年のカンヌ国際映画祭で芸術的貢献賞を受賞したことは、映画祭がこの作品の芸術的価値を正しく認識していたことの証である。
『MISHIMA』は商業的には失敗したが、映画史において重要な位置を占める傑作である。その複雑さ、その美学的徹底性、その知的厳密性は、時間の経過とともに一層明確に認識されるようになり、今日では映画愛好家たちの間で最も尊敬される伝記映画の一つとして認識されている。本作はシュレーダーの監督人生における頂点であり、映画というメディウムの可能性を極限まで追求した記念碑的作品なのである。
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