映画『ランニング・マン』あらすじ結末ネタバレと海外の感想評価まとめ

「エドガー・ライト監督にハズレなし、最高傑作だ」映画『ランニング・マン』(The Running Man)のあらすじ結末までネタバレと海外の感想評価をまとめて紹介する。アメリカ・イギリス合作で制作された本作は原題「The Running Man」で2025年11月14日に公開されたダークアクションスリラー映画で、IMDb6.8点、Rotten Tomatoes批評家64%/観客78%と評価された作品である。本作はスティーヴン・キングの1982年発表の小説を原作とし、1987年のアーノルド・シュワルツェネッガー版に続く二度目の映画化作品となる。

近未来のディストピア化したアメリカ。貧困にあえぐ労働者ベン・リチャーズは、病気の娘を救うため、死を覚悟で危険なリアリティテレビ番組に出演することを決断する。その番組とは「ザ・ランニング・マン」。30日間、殺し屋集団の追手から逃げ延びることができれば、多額の賞金を手にできるが、失敗すれば死亡するという超ハイリスクハイリターンの絶望のデスゲームだった…。

本作の監督はエドガー・ライト。『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ベイビー・ドライバー』で知られる映像の奇才である。主演はグレン・パウエル(『トップ・ガン マーヴェリック』『恋人たちのシーズン』の人気俳優)。そして製作総指揮にはスティーヴン・キング本人が参加し、公式に本作を称賛している。

今回は、ダークな未来社会を舞台にした本作のラストまで詳細に解説&考察していこう。以下の内容は本編の結末のネタバレを含むため、必ず劇場で鑑賞してから読んでいただきたい。また、暴力、殺人、自殺を暗示するシーン、および政治的なメッセージの解説も含まれるため、注意していただきたい。

『ランニング・マン』あらすじ結末ネタバレ

西暦2025年。アメリカはコーポレートメディアに支配される全体主義国家と化していた。ニューヨークの貧困地区コーオプ・シティに暮らす無職のベン・リチャーズ(グレン・パウエル)は前職で同僚たちを助けようと余計なことをする人物としてブラックリストに載せられているため、今ではどの企業も雇ってくれない状況で、妻のシーラ(ジェイミー・ローソン)はジェントルメンズ・クラブでホステスとして働き、幼い娘キャシーは重い病気に侵されているが薬代すら払えない状況だった。

絶望したベンがたまたま見かけた「ザ・ランニング・マン」というリアリティーショーのCMで30日間、プロの殺し屋集団「ハンター」から逃げ延びることができれば、懸賞金10億ドルを獲得できるというショーへの参加を促すものだった。ベンはシーラに相談し、もちろん反対されるが他に方法はないと説得して選抜試験が行われる会場に向かう。

ランニング・マンオーディション

選抜試験会場で長蛇の列に並んでいると後ろの老人が胸を押さえて倒れ込んだため、解放しようとして列から出そうとするが、列の乱れを絶対に許さない警備員から暴行を受けるが、身を挺して老人を守り切る。お人好しのベンはここでも結局列の最後尾に並ばされるハメになるがベンは挫けることもなく、オーディション会場に入る。

オーディション会場ではジェニ・ローフリン(ケイティ・オブライエン)とティム・ジャンスキー(マーティン・ハーリー)がベンと気が合い仲良くする。オーディションの内容は苛烈なSASUKEのような場所を走り回るものだったが、さまざまな危険な職業を経験してきたベンにとっては仕事の延長のようなもので楽々クリアしていき、ついに最終オーディション、、、総合プロデューサーであるダン・キリアン(ジョシュ・ブローリン)との面談が始まる。

キリアンはベンが暴力的な傾向を持ちながらも、時折示す人間味に興味を持ち、特にベンが試験中、規則に反してティムを救った行為は、彼の人間性を象徴しているとしてランナーとして認めるものの、企業のブラックリスト入りしていることや生活に困窮しているベンのことを調べ上げており、ゲームで無碍に死ぬよりもゲームを盛り上げるために、キリアンの指示には絶対に従うと誓うのであれば、家族の妻のシーラと娘を手厚く保護すると約束され、渋々サインすることになる。友人のティムとジェニもランナーとして選ばれている。

ゲームスタート

ゲーム開始当日、スタジオでランナーが紹介されるが、番組の司会者ボビー・トンプソン(コールマン・ディアゴ)がベンの妻シーラがジェントルメンズ・クラブで働いていることを笑い、娘のキャシーの病状までも馬鹿にしたことでベンの怒りは頂点に達する。ここでルールの詳細が伝えられるが、ランナーは逃げ続けることで賞金が増えていくが、追いかけるのはハンターだけではなく、街の住民たちもランナーを見つけたら報告して報奨金をもらえるため、逃げきることははほぼ不可能であることが分かる。

そして、無慈悲なハンターのリーダーであるイヴァン・マコーン(リー・ペイス)とその部隊が紹介され、ついにゲームという名の狩りが始まる。

ランナーたちは主催者が用意した1000ドルと衣服、そして12時間の逃亡時間を与えられ、都市に解放される。ベンは悪友の裏の道具屋モーリー・ジャーニガン(ウィリアム・H・メイシー)を訪れ、偽造身分証明書と銃、ついでにサラリーマン風の衣服に着替えるて無事に電車に乗って遠方のホテルに身を隠すことに成功する。

しかし、ゲームのルールで毎日滞在している場所で自撮りした映像テープを郵便ポストに送らねばならないという決まりがあるため、できる限りホテルの情報を隠して1日目の自撮りテープを配送しようやく安眠することができた。その一方で、すでにハンターは道具屋モーリーに拷問を行っていた…。

二日目

二日目、ティムは変装もせずボストンをぶらつき、ハンターたちに容易に追跡され、射殺される映像を見たベンは荷物をほとんど置いてホテルを脱出して貧困層のモーテルに宿泊する。

安心して外を見たベンは周囲に何もいないと安心していたが、浮浪者と思われていた男性の一人の鋭い眼光を見て、ハンターだと気がついたベンはギリギリで脱出に成功するが、シャワーを浴びるタイミングだったため全裸だった。

屋上から再びロープで脱出し荷物を回収したベンは壊れかけたエレベーターに乗って脱出しようとするが、エレベーターが止まりハンターに追い詰められたため、道具屋からもらったグレネードを投げるがあっさり返され、エレベーターが大爆発してそのまま地下に落下してしまう。地下に追い込まれたベンはネズミの逃げた地下への道を見つけ脱出するが、ガス漏れの影響で大爆発が起きてしまう。おかげでベンは無事に脱出することに成功する。

爆発を見ていた男の子ブラッドリー(ダニエル・エズラ)はマンホールから出てきたベンを自分の家へ来ないかと誘う、もちろんベンは最初は信用しなかったが、若いながらも頭脳明晰なブラッドリーはベンの境遇を理解した上で信用してもらうため、ベンの二日目のテープをポストに投函して信用を得る。

ブラッドリーの家を訪れたベンは、撮り溜めたランニングマンの映像を見せて勉強すべきだと伝え録画した過去放送をベンに見せる。そこでハンターたちはランナーたちを三つに分類「絶望的な奴ら」(自信過剰で準備不足)、「ネガティブな奴ら」(最初から諦めている者)、そして「最終的な奴ら」(生存意志が強く視聴率を稼ぐ者)カテゴリー分けていることを知り、ブラッドリーからベンは「最終的な奴ら」のカテゴリーだと言われる。

ブラッドリーの家族と一緒に番組を見ていると、ベンの起こした爆発でハンターが8人死んだこと、そして彼らの家族が現れ追悼番組になると、ベンが二日目に送ったテープが改造されベンが楽しんでハンターを殺したサイコパスのように放送されてしまい、ベンの母親に完全に誤解されて家を出ることになる。

だがブラッドリーの兄は、ゲーム側の嘘を見抜き、ベンの境遇を理解しブラッドリーと兄は密かにベンを自動車のトランクに隠して逃がし、その過程でバイクに乗ったハンターたちと遭遇するが激しい銃撃戦の末になんとか脱出に成功する。

7日目

ゲーム側の印象操作で最悪の殺人鬼扱いされているベンへの憎悪が高まり、ベンを見かけた住民たちはハンターに連絡をせず、自分たちでベンを殺そうとし始める中、ベンは神父の格好をして身を潜めていた。その頃、ついにジェニがラスベガスで激しい逃亡劇の末にハンターに殺されてしまう様子をテレビで放送されていた。

ベンはブラッドリーの兄から渡されていた住所を頼りに、メイン州ダリーで政府への反対活動を行っている活動家のエルトン・パラキス(マイケル・セラ)の家を訪れる。エルトンは警察官だった父をゲームに殺された過去を持ち、ゲームに反撃するチャンスを待ちずっと地下活動を行っていた。そこにベンが訪れたため、ついに行動する時だと長年温めてきた計画をベンに伝える。

話を終えたベンを見つけたエルトンの母親ビクトリア(サンドラ・ディッキンソン)がベンを見つけて通報ボタンを押してハンターたちが大勢家に現れ銃を乱射してくる。しかしこれは全てエルトンの計画の一部でハンターたちを全員エルトンの屋敷に集めて全員倒してゲーム側の勢力を削ぐというものだった。ハンターたちはエルトンが屋敷中に仕掛けた爆発物、電気罠、化学兵器で屋敷に侵入したハンターたちを皆殺しにする。

エルトンとベンが地下道から逃げようとするがハンター・フランク(カール・グルスマン)に襲われ殺されそうになるが、協力してフランクを撃退する。そこにCEOキリアンから電話が入り、そのままハンターフランクを殺して番組を盛り上げるように指示されるが、彼は撮影ドローンを破壊して逃げる。エルトンのバギーに乗って脱出を試みるが、エルトンはヘリからハンターのリーダーマコーンに狙撃されて死んでしまう。

ベンはバギーごと橋の上で道を塞いでいたフランクの車に突っ込みエルトンの爆弾でついにフランクを殺すと、再び過酷な逃亡生活が始める。

17日目

カナダ国境付近でドローンに発見されてしまったベンはアメリア・ウィリアムズ(エミリア・ジョーンズ)が乗る車の助手席に乗り込み彼女を脅し、ハンターたちの車から逃れるように指示してなんとか脱出に成功する。

アメリアは最初、ゲーム側のプロパガンダを信じており、ベンを最悪のテロリストと信じ切っていたため、家族の写真を見せて説明しようとしたところに、地元住民がベンを私刑しようと銃を持って現れる。そこにゲーム側のドローンが現れると住民を殺害してしまう。

なぜ住民を殺すのか、何が起きているのか理解できないアメリアにこれがランニングマンゲーム側のやり方だと説明し、テレビをつけると、そこにはゲーム側が生放送でベンとアメリアの車を放送しているが、なぜか車に乗っているはずのアメリアが泣きながら助けて欲しいと懇願する映像が流れている様子を見て、アメリアがベンの言う通りゲーム側が勝手に映像に細工をして視聴者を誘導していることにやっと気が付く。ベンの主張を信じたアメリアはベンを連れて飛行場に向かう。

結末ネタバレ:真実の勝利と新しい秩序

飛行場に到着したベンは爆発物を持っていると脅し、アメリアを人質に無事に飛行機が離陸する。

離陸飛行機内でキリアンがベンに連絡を入れ、すでにスキャナーによって爆発物がないことを知っていることを明かすと、ハンターマコーンがベンを殺そうとするが、キリアンはそれを阻止して退席させると、キリアンはベンに、その飛行機に乗っているマコーンとハンターを殺せば、彼をハンターとして雇うことを提案し、実はマコーンもランニングマン第一シーズンの生き残った唯一のランナーでキリアンの提案を受け入れてハンターになったことを伝えると、さらにとどめとばかりにマコーンが妻と娘を殺したというニセの映像を見せ、ベンを激怒させてマコーンたちを殺すように仕向けるのだった。

しかしアメリアがテレビをつけてランニングマンゲーム側がそうやってベンを操作しようとしているだけだと説明、すぐに落ち着いたベンを殺そうとしてきた操縦士たちを殺して、マコーンとの一騎打ちを始め、窓を破壊してマコーンをパラシュートごと固定するとついにマコーンを刺し殺す。そしてアメリアにパラシュートを渡して外に脱出させる。

テレビ側ではすでに、ベンがランナーから生まれたハンターとしてまもなくスタジオに登場すると勝手に放送されていた。

キリアンは最後の警告として従わなければベンが飛行機をコーオプ・シティに突っ込ませようとしている世界最悪のテロリストに仕向けると伝え、操縦を勝手に操作して街に突っ込むように仕向ける。しかし、最後までキリアンの提案を跳ね除け続けたベンに対しキリアンはベンの映像を最悪のテロリストに仕立て上げ、ミサイルで飛行機を撃墜させて、ゲームはキリアンの思惑通りに終了する。

後日、シーラと娘が壁にリチャードは生きているという落書きを発見する。そこで、ベンが最後までキリアンに抗った話、キリアンの提案、ハンターたちとの無修正のやり取りが残されたブラックボックスをアメリアが入手してそれを世界に発信していることが明かされ、ゲーム側の権力は失墜し、最後まで生き延びたベンが英雄となり、スタジオにいる観客たちはファンに見せかけた反ゲーム活動家たちで、キリアンがいつものようにスタジオに現れると火炎瓶を投げつけ暴動が始まる。

暴動から逃げるキリアンの前を立ち塞がるのは、墜落した飛行機の脱出ポッドで生還していたベンだった。ベンは「3,2,1,アクション」と引き金を引いて物語は終了する。

The Movie Spoiler – The Running Man

『ランニング・マン』作品情報

『ランニング・マン』は、エドガー・ライト監督による野心的なダークスリラー映画である。本作は2025年11月14日にアメリカで劇場公開され、パラマウント・ピクチャーズが配給を担当した。原作はスティーヴン・キングが1982年に発表した同名の小説であり、今回の映画化が二度目のハリウッド映画化となる。制作規模は90億ドルを超え、イギリス、ハンガリー、ブルガリアで撮影が行われた大型プロダクションである。

興行収入

本作は公開初週末で2300万~2500万ドルのオープニングを記録した。同週に公開された『グランド・イリュージョン3/ダイヤモンド・ミッション』と激しく競争した。初週のパフォーマンスはやや控えめだが、批評家とスティーヴン・キング本人からの支持により、中期以降の興行成績の伸長が期待されている。

エドガー・ライト監督情報

1974年4月18日イングランド出身のエドガー・ライトは、現代で最も斬新で創意工夫に満ちた映像監督である。彼は『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ホット・ファズ』『ワールド・エンド』のコルネット・トリロジーで国際的な認知を獲得。シモン・ペッグとニック・フロストとの長年の協力関係が知られている。映像表現における彼の特徴は、高速編集、独特なトランジション、ポップミュージックの活用である。『スコット・ピルグリム vs. 邪悪なエックス軍団』では個性的な映像言語を駆使し、『ベイビー・ドライバー』ではアクション映画の新しい可能性を示した。本作はキング原作の政治性をいかに映像化するかという挑戦である。

主演 ベン・リチャーズ役「グレン・パウエル」情報

グレン・パウエルは1988年10月21日にテキサス州オースティンで生まれた。当初は脇役専門だったが、2022年の『トップ・ガン マーヴェリック』で映画スターへと転身した。パウエルはトム・クルーズ自らの電話で称賛され、キャラクターは映画内で最も記憶に残るキャラクターとなった。

以降『恋人たちのシーズン』『Hit Man』『Twisters』など、主演作品を次々と公開している。彼の特徴は、カリスマ的な存在感と、深刻なシーンから喜劇的なシーンへの素早い切り替え能力である。本作では、娘を救いたいという人間的な動機と、怒りに支配される主人公の二重性を表現している。

主演 ダン・キリアン役「ジョシュ・ブローリン」情報

ジョシュ・ブローリンは、MCU『アベンジャーズ』シリーズでサノスを演じた俳優として知られている。彼の演技範囲は広く、『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』ではアカデミー賞ノミネート。本作ではネットワークの冷酷なプロデューサーを熱演。彼の低く抑えた声と微妙な表情が、キリアンという悪役に説得力を与えている。

海外の感想評価まとめ

『ランニング・マン』は、賛否両論ながら「映画として機能している」という評価に集約される。批評家たちは「エドガー・ライトの個性が十分に発揮されていない」という点を指摘する一方で、「グレン・パウエルの魅力と速いペースが映画を支えている」と評価する。海外での総合的な受け止め方は「ポップコーン・エンターテインメントとしては成功、思想的深さにおいては課題あり」に集約される。

IMDb(総合評価:6.8/10)

①本作はスティーヴン・キングの原作に比べより忠実である。グレン・パウエルは、カリスマ性と弱さを兼ね備えたリアルな主人公像を創造している。純粋な肉体的ヒーロー像ではなく、娘のために必死にあがく平凡な人間を演じることで、1987年版よりも説得力のある主人公を作った。

②映像表現とペーシングはエドガー・ライトの手腕が感じられるが、彼の署名的なビジュアル・スタイルは意外と抑制されている。これは原作の政治的シリアスさと、商業映画としてのエンターテインメント性のバランスを取ろうとした結果である。結果として、映画は「両者のちょうど中間」になり、どちらの観客も完全には満足できない。

③配役は優秀で、ジョシュ・ブローリン、コールマン・ディアゴ、マイケル・セラなど、脇役たちが有効に機能している。特にコールマン・ディアゴは、現代のリアリティテレビ司会者の本質を見事に表現している。

④物語は予測可能な展開が多く、「貧困者vs富裕層」「メディアによるプロパガンダ」という要素がかなり直接的に描かれている。これはキング原作の忠実な映像化の結果だが、映画的な洗練さに欠ける。それでも映画は「娯楽作として機能する」という基準は達成している。

IMDb – The Running Man

Rotten Tomatoes(批評家:64% / 観客:78%)

①批評家と観客の評価が乖離している。批評家は「ライトの個性が不足」と指摘するが、観客は「パウエルのカリスマとテンポの良さ」で楽しんでいる。映像ファンは完成度を求め、一般観客は娯楽体験を求めているという構図が見て取れる。

②音響とビジュアル・エフェクトは高水準。追跡シーンの技術応用は映画館での体験を高める。ただしCGの多用により、生身の人間が走る「感覚」が失われている面もある。

③原作への忠実性ゆえに、ストーリーは時に「説教的」に感じられる。政治的メッセージをかなり直接的に観客に伝えようとしており、それが時に作品の娯楽性を損なう。

Rotten Tomatoes – The Running Man

Metacritic(総合評価:56/100)

①Metacriticの56は「平均的」という判定である。批評家レビューは52件に基づき、肯定的・否定的評価が相半ばしている。「ライトの個性の欠落」が繰り返し指摘され、これが低スコアの主因である。

②最大の批判は「これはエドガー・ライトが監督する必要があったのか」という問い。彼の署名的なスタイルが、本作ではほぼ機能していないという指摘は妥当である。

③しかし、エドガー・ライトが「制約の中でプロフェッショナルに機能させた」という評価も存在する。政治的スリラーとしての骨組みの中で、彼ができる最善を尽くしたという見方もある。

Metacritic – The Running Man

批評家レビュー

映画『ランニング・マン』は、海外の著名な映画批評家からも注目を集めた。ここではその詳細な評価を見ていこう。

Variety 評価:中立的

オーウェン・グレイバーマン氏「1987年版より優れているが、政治的警告としての新鮮さに欠ける」

Varietyの主席批評家オーウェン・グレイバーマンは、本作を「アーノルド・シュワルツェネッガー版よりは優れているが、キング原作の政治的警告としての力は減弱している」と評価する。彼はグレン・パウエルの魅力とエドガー・ライトのテンポ感を認める一方で、「暴力-娯楽-支配というキングの主張は、今や映画製作される前に既に現実化している」と指摘。つまり、ディストピア小説が描く未来が既に現在化した今、この物語の予言的価値は失われているということだ。グレイバーマンは「映画としては商業的に成立しているが、思想的には退行している」と結論づける。ただし彼は、本作が1987年版よりも原作に忠実であり、ライトのビジュアル・センスが随所に感じられることは認めている。

評価点

グレン・パウエルのカリスマとプロフェッショナルな演技。エドガー・ライトのペーシング感とビジュアル・スタイルの部分的な機能。マイケル・セラやコールマン・ディアゴなど、脇役の充実した配役。

批判点

政治的メッセージの直接性が強すぎる。エドガー・ライトの個性がやや抑制されている。物語の予測可能性と、現代における警告としての新鮮さの欠落。

(Variety – The Running Man)

Roger Ebert 評価:中立的~肯定的

マット・ゾラー・サイツ氏「速度感が作品を支える。だが思想的深さは生まれていない」

RogerEbert.comの編集長マット・ゾラー・サイツは、映画の速度感とグレン・パウエルの魅力を称賛しながらも、その思想的な浅薄さを指摘する。彼は「リズミカルなペースが映画を弾力的に進める一方で、観客が映画の世界観を深く吟味する余地を与えない」と述べている。これは意図的な構成だとサイツは考察し、「恐らくそれが正解なのだろう」とも付け加えている。つまり、思想的に深く入り込めば、観客はこの作品の暴力的で野蛮な側面に直面せざるを得ず、その結果として映画体験そのものが不快になりかねない。サイツはこのジレンマを、「速度感によってそうした不快感を先制攻撃する」戦略として解釈している。

評価点

グレン・パウエルの身体的な表現力。エドガー・ライトのペーシングと編集。映画全体の技術的な完成度。エンターテインメント性の維持。

批判点

思想的深さの欠落。原作のシリアスさと映画の娯楽性のバランスの取れなさ。ディストピア・テーマの陳腐化。

(Roger Ebert – The Running Man)

The Washington Post 評価:肯定的

クリス・クリメック氏「血塗られた娯楽としては秀逸。エドガー・ライトは確かに『Wright Stuff』を持っている」

ワシントン・ポストのクリス・クリメックは、本作を「3.5/4つ星」で評価し、「血塗られた娯楽」として秀逸だと称賛した。彼はエドガー・ライトのディレクションとグレン・パウエルのパフォーマンスを高く評価し、「ライトはこの素材を、自分のビジュアル・センスで見事に再構成した」と述べた。クリメックは、映画が政治的メッセージを持ちながらも、同時に純粋な娯楽体験として機能していることに価値を見出している。

評価点

技術的な完成度とエドガー・ライトのビジュアル・スタイル。グレン・パウエルの充実した演技。映画全体の速度感と興奮度。脇役たちの秀逸な配役。

批判点

提示される点は限定的だが、強いてあげれば「思想的な複雑性がやや簡潔化されている」という点か。

(The Washington Post – The Running Man)

NPR(National Public Radio)評価:中立的

NPRの批評家は、「王の預言の縮減」という観点から本作を分析した。原作は1982年の出版時に「2025年のアメリカ」を想定していたが、その予言的価値が現在では減弱しているという点を指摘。エドガー・ライトは「この苦難をできるだけ上手く乗り越えた」と述べながらも、「結末に関する重要な要素が映画では削除されており、それが物語全体に異なる印象を与えている」と指摘した。特に、スティーヴン・キングが表現しようとした社会への革命的な抵抗という要素が、映画では緩和されている。

評価点

エドガー・ライトの誠実な適応努力。グレン・パウエルの説得力のある演技。映画としての技術的完成度。

批判点

原作の政治的で暴力的な結末の縮減。ディストピア・テーマとしての新鮮さの欠落。思想的複雑性の簡潔化。

(NPR – The Running Man)

個人的な感想評価

なんだこれ、くっそ面白い娯楽映画って感じ。

スティーヴンキングの原作、シュワルツネッガー版は見ていないが、説明しすぎな点やラストの急ぎ気味は否定できないが、訳のわからないが、あり得そうなリアリティーショーに参加した平凡な主人公が四苦八苦しながら駆けずり回り、力を貸してくれる人たちがあっさりと退場していくなどの全体的にテンポ良く物語が進み着地していくので物語全体の質は高い。が、やはり、物語としてランニングマンという名前の通り、めちゃくちゃ走り回って逃げまくる映像を期待していたが、いつもどこかに落ち着いたところで襲撃に遭うため、爽快感や疾走感は少なめ、だから個人的には65点って感じ。面白いような、喉に何かが引っ掛かるような感じはある。

そもそもエドガーライト監督作品なのか?という印象を持つぐらい、彼らしさが皆無である。ショーン・オブ〜、ワールド・エンド、ベイビータクシーみたいな、革新的な何かが映像や脚本や演出にあるわけでもなく、普通だった気がする。

が、ワーキングマンとかビーキーパーとかオイルマネーで無理やり作らされたようなジェイソンステイサム作品に比べたら圧倒的に面白く完成度は高い。

『ランニング・マン』は、エドガー・ライトという映像の革新者とスティーヴン・キングの政治的警告という、二つの強力な要素が衝突した結果生まれた作品である。ライトは彼自身の署名的なスタイルを抑制し、キング原作の骨組みを尊重した。

その結果として、映画は「商業的娯楽作品」としての完成度を獲得した一方で、「思想的挑発者としてのライト」を見ることができない作品になってしまった。グレン・パウエルの魅力とジョシュ・ブローリンの冷酷な悪役ぶりは、映画を支える重要な要素である。しかし本質的には、本作は「原作の忠実な映像化」というコンセプトの枠内で制作されており、ライト自身のクリエイティビティが十分に解放されていない。それでもなお、映画は「現代への警告」として機能し、観客に不安と怒りを喚起する力を持っている。

まとめ

『ランニング・マン』は、スティーヴン・キングの1982年の小説が、2025年という現実の時点で映画化された作品である。

期待度としては「エドガー・ライトの新作」という点で高かったが、蓋を開けてみると「原作の忠実な映像化」という路線で制作されていた。内容面では、本作はキング原作の政治的警告を、ほぼそのまま映像化している。

ベン・リチャーズが社会システムへ抵抗する英雄へと変貌していく過程は、映画の中で力強く描かれている。評価としては、IMDb6.8点、Rotten Tomatoes批評家64%/観客78%というスコアが示すように、「商業的に成立した娯楽作品」という評価が一般的である。

海外での受け止め方は「エドガー・ライトの個性を期待していた批評家からは失望」「グレン・パウエルの魅力と速いペースを楽しんだ一般観客からは好評」という二分化している。また、スティーヴン・キングが本人自ら本作を「fantastic」「bipartisan thrill ride」と称賛していることは、原作者の満足が映画として一定のクオリティを達成していることを示している。本作は「完璧な映画」ではないかもしれないが、「現代社会への政治的警告を娯楽作として成立させた映画」という観点からは、確かな価値がある。

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