映画『フランケンシュタイン(2025)』あらすじ結末ネタバレと海外の感想評価まとめ

「ゴシック美学とヒューマニティが織り交ぜられた傑作」として海外で高い評価を得ている映画『フランケンシュタイン(2025)』。本作は長年の構想を経て、ついにギレルモ・デル・トロ監督による映像化が実現した。ネタバレと海外の感想評価を詳しくお伝えしていく。

メキシコの巨匠ギレルモ・デル・トロが、1818年にメアリー・シェリーにより著された古典文学『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』を映画化した本作は、アメリカ・ゴシック・サイエンスフィクション作品だ。2025年8月30日、ヴェネツィア国際映画祭にてワールドプレミアを迎え、その後10月17日に限定劇場公開、11月7日よりNetflixで全世界配信された。オスカー・アイザック、ジェイコブ・エロルディ、ミア・ゴス、クリストフ・ワルツら豪華キャストが集結し、デル・トロの映像美とともに現代に蘇る怪物譚を全世界のファンが注目している。

1857年のヴィクトリア朝時代が舞台。北極圏で氷に閉ざされた船の乗組員の前に現れたのは、死という絶望を追い求める天才科学者ヴィクトル・フランケンシュタイン。彼の後を追ってくるのは、自らの造物主に復讐を遂行する生命体だった。しかし真の怪物とは、いったい誰なのか。虐待と愛情、父と息子の関係性が生み出す悲劇が、氷の世界で幕を開ける。

本作の監督・脚本を務めるのは、『パンズ・ラビリンス』『ヘルボーイ』『シェイプ・オブ・ウォーター』などで知られるギレルモ・デル・トロ。主人公のヴィクトル・フランケンシュタイン役にはオスカー・アイザック、その造物であるクリーチャーを演じるのは『ユーフォリア』で知られるジェイコブ・エロルディだ。さらにクリストファー・ウォルツ、ミア・ゴス、チャールズ・ダンスら名優が脇を固める。スコアを手がけるのは『ハリー・ポッターと秘密の部屋』で知られるアレクサンドル・デスプラだ。

今回は、映画『フランケンシュタイン(2025)』の結末に至るまでの全容を解き明かし、海外ではどのような評価を受けているのかを詳しく紹介していく。以下の内容は映画の結末を含む重大なネタバレを必ず含むため、ぜひ先に劇場かNetflixで本編をご鑑賞いただきたい。また、暴力的表現、グロテスクな身体改造描写、死に関する深刻なテーマについての解説も含まれるため、視聴時には注意いただきたい。

『フランケンシュタイン(2025)』あらすじ結末ネタバレ

ここから先は『フランケンシュタイン(2025)』の核心に迫る重大なネタバレを含む。映画全体の謎、結末、キャラクターの運命が明かされるため、ご注意いただきたい。

絶望の逃亡者

北極の極寒の大地を、一人の男が必死の思いで逃げている。その名はヴィクター・フランケンシュタイン(オスカー・アイザック)

自らが犯した過ちから逃げるため、怪物から逃げ続けている。

ダニッシュ海軍の船長アンダーソン(ラース・ミッケルセン)は、氷に閉ざされた洋上で航海を続けるか、無謀な旅を続けるか否かを悩んでいた。部下が地平線まで続く氷の上で爆発が起きたと報告してきたため、部下達を連れて調査に向かったところで爆心地で瀕死のヴィクターを発見し船で治療を行うと、奇跡的にヴィクターは目を覚まし、なぜそこにいたのか?あの爆発は?とアンダーソン船長の問いかけに対し、ヴィクターは長い長い話になると過去を語り始める。

呪われた生誕

かつてヴィクターは、死してなお生命を取り戻すことは可能だと信じていた。その執念の根底にあったのは、自らの母クレア・フランケンシュタイン(ローレン・コリンズ)の突然の死である。彼女は幼き弟ウィリアム(フェリックス・カマレル)を出産する際に息を引き取ったのだ。

ヴィクターの父親であり医学者であるバロン・レオポルド・フランケンシュタイン(チャールズ・ダンス)は、息子に厳格さで応えた。愛情よりも支配、教え込みよりも服従を強要する父のもとで、ヴィクターは歪んだ執念を育てていった。父の暴力と軽蔑は、ヴィクターの心に深い傷を残し、彼を科学への逃避へと駆り立てた。

医学を学んだヴィクターは、死の克服に心血を注ぎ始める。戦場の屍骸、解剖室の遺体、そして墓地から掘り出した遺骨。複数の死体から、最高の部位を選別し、理想の肉体を組み上げていく。その過程は、科学というよりも狂気に満ちていた。

資金と野望

ヴィクターの実験は金銭を要した。莫大な資金が必要だったのだ。そこに現れたのは、武器製造業で巨万の富を得たハインリヒ・ハルランダー(クリストフ・ワルツ)だった。ハルランダーはヴィクターの野心に惹かれ、無尽蔵の資金と施設を提供することを約束する。

ハルランダーの邸宅の地下奥深くに、ヴィクターは実験室を構築した。自家発電機、解剖台、薬物、そして人体の各器官を保存するための装置。一切の近代技術が集約された空間で、ヴィクターはついに造物主となる。電流を流し、生命の息吹を呼び覚ます瞬間が訪れたのだ。(この時、ハルランダーは梅毒に感染しており、当時は死を待つだけの不治の病であることを理解していたハルランダーはヴィクターの作った肉体に自分の脳を移植しろと実験を妨害しようとした際に足を滑らせて屋上から落下死してしまう)

眼を開いたクリーチャー(ジェイコブ・エロルディ)は、ヴィクターを見つめた。その視線には純粋な疑問と、世界への底知れぬ渇望が満ちていた。しかしヴィクターの第一印象は生から死への不可逆な理、死を克服した自らの創造物の美しさではなく、醜さへの嫌悪だった。体を覆う外科的な傷跡、異なる肉体部品の継ぎ接ぎ、人間離れした形態、知性は幼子レベルだったが、ヴィクターがいくら言葉を教えようとしても理解しようとしないため、クリーチャーへの愛情は一瞬にして消滅していくのだった。

この時、クリーチャーが唯一覚えた言葉、それは創造主の名「ヴィクター」だった。

実業家として出世していた弟ウィリアムと共謀してハルランダーの遺体、そしてヴィクターの懇願によりクリーチャー、そして死を克服するための資料全てを爆発させて抹消するが、間一髪逃げ延びたクリーチャーは、近くの森で住む猟師一族の家の納屋に隠れ住むことになる。

クリーチャーは隠れて猟師一族のやり取りを見て言葉や文化を学び、お返しに薪拾いや狼の襲撃を防ぐための柵を作成するなど恩返しを始めたことで、猟師一族は森の妖精の仕業だと信じ、ドアの外に食事や衣服をお供えし、初めての美味い食事と温かい衣服、クリーチャーにとって生まれて初めて心が休まる日々を過ごすのだった。

冬になるとオオカミを根絶するために男達は狩りへ、女子供は街に避難し、盲目の老人ジョン・モルトン(デイヴィッド・ブラッドリー)は森の中の家に残ることになる。この賢者は、クリーチャーの存在に気がつき、自信を怪物だと蔑むクリーチャーを優しく迎え入れると、自己肯定と憐憫と赦し、そして愛、最後に文学と人生の美しさを教え、シェリーの『オジマンディアス』、ミルトンの『失楽園』――古典文学を通じて、クリーチャーは自らの苦悩の本質を理解し始めた。自分の出生に興味を持ったクリーチャーは唯一覚えていたヴィクターという創造主の名前の意味を探しに破壊され尽くした廃墟を訪れ燃え残った資料の中から自分が死体から生み出された怪物だと知る。

意気消沈して森の家を訪れると賢者が狼の襲撃に遭い瀕死の状態だった。狼を退け、賢者を助けようとするが、死を悟った賢者は出生の秘密を嘆くクリーチャーに「許すことだ自分も、創造主も」と微笑み死んでしまう。ここで祖父を襲った怪物と勘違いした息子達がクリーチャーの顔面に銃弾を撃ち込みクリーチャーは死んでしまう。

いつぐらい時が経ったのか、クリーチャーは生き返る。確かに顔面を銃弾が貫き即死したはずだったが、傷は跡形もなく消え去り、自分がもう死ぬことすら許されない存在なのだと嘆き悲しみながら、創造主ヴィクターを探す旅に出る。

その頃、ヴィクターは弟のウィリアムとエリザベスの結婚式のため、屋敷で休んでいた。そこに現れたクリーチャーは、ヴィクターに対し「伴侶を作れ」とお願いする。しかし既に死の克服への興味を全く失っていたヴィクターは2度と怪物は作らないと拒否する

対話が不可能であるならば暴力しかない、そう呟いたクリーチャーがヴィクターを叩きのめしていると、騒ぎを聞きつけたウィリアムとエリザベスが現れクリーチャーの意識が逸れた隙を狙ってヴィクターが銃を発砲するが、エリザベスはクリーチャーを庇って腹に銃弾を受けて死んでしまう。クリーチャーはウィリアムも殴り飛ばして殺害するとその場から逃亡する。

ネタバレ:復讐と赦し

復讐を誓ったヴィクターは全てを捨ててクリーチャーを殺すために北極の果てまでたどり着く。しかしクリーチャーは逆にヴィクターを捕まえると、彼が所持していたダイナマイトに火をつけて「これで私が死ななければ、攻守交代だ、逃げておけ」とダイナマイトを抱きしめ爆発する。

ここが冒頭の船乗り達が目撃した氷上の爆発だったのだ。

何度も銃弾を受け、ダイナマイトの爆発を持ってしても死ぬことができなかったクリーチャーは、船乗り達の前に現れ船長の許しを経て船室に入る。

ヴィクターはクリーチャーに見切りをつけてから彼との対話を拒むどころか、銃弾を撃ち込み激しく拒否し、弟夫婦を失った怒りと憎しみに囚われていたが、何を持ってしても自分が生み出したこの存在を殺すことが不可能であると理解したことで、ついにクリーチャーと対話する理性を取り戻し、クリーチャーがどのような日々を過ごしてここに辿り着いたかを知ったヴィクターは、ついに「すまない、赦してくれ、息子よ」と懺悔の言葉を呟く。

求めていた言葉を聞いたクリーチャーは優しい眼差しを向けヴィクターの手を取り「父よ、あなたを赦す」そう伝えると、ヴィクターは安堵した表情を浮かべ息を引き取る。クリーチャーは船を降りると、その強靭な力で船を氷から脱出させるとその場を立ち去る。

彼らの奇妙な寓話を聞いていた船長は生を選び船員達に大きな声で家に帰ろうと伝えるのだった。

その後、クリーチャーは静かに氷の地平線へ消えていった。

最後にバイロンの言葉「心は砕けても、砕かれたままで生きるのだ」と表示されて物語は終了する。

引用元:Roger Ebert – Frankenstein(2025)

『フランケンシュタイン(2025)』作品情報

映画『フランケンシュタイン(2025)』は、ギレルモ・デル・トロが人生を費やして実現させた傑作だ。本編の映像美、キャストの演技、そして深刻なテーマ性が完全に融合した一作となっている。以下では、制作に関わった人物たちの背景と実績を紹介する。

興行収入

本作はNetflixの$120ミリオンという豪華な製作費によって生み出された。2025年10月17日から限定劇場公開され、11月7日よりNetflix独占配信となった。

ギレルモ・デル・トロ 監督情報

『パンズ・ラビリンス』で日本でも知られるギレルモ・デル・トロ(1964年生まれ、メキシコ出身)は、映画史上最も個性的なビジュアル表現者の一人だ。彼の作品は、ゴシック美学、怪物への共感、そして哲学的な深さで統一されている。デル・トロは、1997年の『クロノス』で国際的な認知を得た。その後『ヘルボーイ』シリーズ、『ダイムズ・ラビリンス(日本未公開タイトル)』を発表。2017年には『シェイプ・オブ・ウォーター』でアカデミー賞作品賞を受賞した。同作はロマンティック・ファンタジー・ホラーとしての新境地を開く作品となり、世界中の映画人に影響を与えた。2022年に発表した『ピノッキオ』は、ストップモーション・アニメーション作品としてアカデミー作品賞を受賞。デル・トロの全キャリアの中で、『フランケンシュタイン』は最も長く温め続けた企画だと言われている。

主演 ヴィクトル・フランケンシュタイン役「オスカー・アイザック」情報

オスカー・アイザック(1979年生まれ、ガテマラ系アメリカ人)は、現代ハリウッドを代表する俳優の一人だ。彼の演技は、知性と狂気の両立、そして複雑な心理描写で知られている。アイザックは2010年の映画『アンナ・カレーニナ』で国際的な認知を得た。その後『エクス・マキナ』(2015年)では、人工知能と人間の倫理について深く問う傑作で、不気味さと魅力を兼ね備えた役を演じた。2016年にはスター・ウォーズの最新三部作にキロ・レン役で登場。アイザックは多くの作品で、倫理的に問題を抱えた人物を演じており、その才能は悪役描写において真価を発揮する。『ドライブ』『モン・モンテ』『ナイト・オブ・ザ・キング』など、絶えず新しい役にチャレンジし続けている。

主演 クリーチャー役「ジェイコブ・エロルディ」情報

ジェイコブ・エロルディ(1999年生まれ、オーストラリア出身)は、テレビドラマ『ユーフォリア』の主役ニックス・エンダール役で一躍世界的な知名度を獲得した。若き才能あるエロルディが、映画『フランケンシュタイン』でプロテーゼに覆われたクリーチャーを演じることは、彼のキャリアにおける革命的な一歩だった。本作でエロルディは、全身に施された特殊メイクの下から、深刻な表情、悲劇的な感情、そして人間らしい優しさを完璧に表現した。映画評論家の間では、彼の無言の演技、瞳の動き、身体の使い方が賞賛されている。出演作『The Kissing Booth』シリーズで知られるエロルディだが、本作における彼の芸術的深さは、彼が単なる若手俳優ではなく、確かな才能を備えた表現者であることを証明した。

海外の感想評価まとめ

『フランケンシュタイン(2025)』は、ヴェネツィア国際映画祭でのプレミア後、世界的な批評家の注目を集めた。海外評価は全体的に肯定的で、特にジェイコブ・エロルディの演技、デル・トロの映像美、そしてヒューマニティなテーマについて高く評価されている。一方、長尺の構成や、原作からの改変について異論を唱える批評家もいる。なぜこの映画がこのような評価を受けるのか、具体的なレビュアーの声を参照していこう。

IMDb(総合評価:7.8/10)

① Guillermo del Toroの長年の念願だったプロジェクトが実現し、「フランケンシュタイン」は確かにシネマティック・マスターピースの領域に達している。Oscar Isaacの過度な優越感を持つ科学者ぶりは完璧で、Jacob Elordiの下にある造物の神聖さと悲劇性が全てを支配する。Production designから衣装、撮影技法に至るまで、全ての要素が最高水準だ。特にAlexandre Desplatのスコアは観者の骨髄に染み込む。この作品が示しているのは、怪物映画が常に問い続けるべき疑問だ――「怪物は死を望むとき何が起こるのか」と。少数の映画のみが、これほどまでに衝撃的に答えることができる。

② 長年待ち続けたデル・トロの傑作がついに誕生した。Oscar Isaacが演じるヴィクトルは、科学者というより拷問された芸術家だ。しかし真の中心はJacob Elordiのクリーチャーにある。彼は全身メイクの下で、優雅と苦悩を同時に表現している。映像は圧倒的に美しく、ゴシック的な優美さと暴力が衝突する世界が完全に構築されている。Alexandria Desplatの音楽が全てを昇華させた。

③ 映画『フランケンシュタイン』は、メアリー・シェリーの原典を完全に敬意を持って再解釈した作品だ。この1857年の時代背景設定により、電気というテクノロジーが物語に深さを加えている。Del Toroは単なるホラー映画ではなく、家族の傷、世代を超えた虐待、そして究極の赦しについての物語を創造した。Oscar Isaacのマニアックな演技とJacob Elordiの感受性が衝突し、その結果は芸術だ。

④ このアダプテーションは、数十年ぶりにこの古典を真摯に扱った作品だ。Del Toroの技法は完璧であり、彼の美的ビジョンが隅々に浸透している。ただし一点、若干の冗長性が存在する。2時間29分という尺が、第二幕の推進力を若干失速させている印象を拭えない。しかしそれでもなお、この作品は傑作の領域に留まる。

IMDb – Frankenstein(2025)

Rotten Tomatoes(批評家:86% / 観客:82%)

① Guillermo del Toroは、映画史上最も人気のあるモンスターの一体の中に人間性を見つけることに成功した。『フランケンシュタイン』は豪華な叙事詩で、Jacob Elordiの傑出したパフォーマンスから最も活気に満ちた電圧が生み出されている。Del Toroの魔術的な視点は、往年のホラー映画への敬意を持ちながらも、完全に現代的な解釈を実現させた。

② Del Toroの長年にわたる映像的野心が、ついに完全に実現された。ヴィクトリア朝時代の陰鬱な空間、赤と緑の色彩の対比、そしてJacob Elordiの魂が込められた表情。全てが調和している。このアダプテーションは、シェリーの原作に対する深い理解と愛情を示しており、同時にDel Toroの個人的なビジョンも完全に表現されている。

③ 『フランケンシュタイン』は、哲学的な深さと映像美を兼ね備えた傑作である。Del Toroは、造物主と被造物の関係性を通じて、人間の本質について問い続ける。Oscar IsaacとJacob Elordiの相乗効果は、この映画を単なるホラー映画から昇華させている。

Rotten Tomatoes – Frankenstein(2025)

Metacritic(総合評価:78/100)

① Guillermo del Toroは、メアリー・シェリーの古典を完全に自分のものにした。原作に対する忠実さと個人的ビジョンの融合が、この作品の最大の強みだ。Del Toroは、家族間の虐待、戦争による死、そして赦しというテーマを深く掘り下げている。これらの要素は、現在の世界政治やSNSの暴力性についての問い直しをも促している。

② 本作の映像は圧倒的だ。Dan Laustenのシネマトグラフィーは、各フレームに意味を込めている。Kate Hawleyの衣装デザイン、Tamra Deverellのプロダクションデザイン、そしてAlexandre Desplatのスコア。全てが協奏曲を奏でている。ただしDesplatの音楽は、Danny Elfmanのスタイルに近い側面があり、その点は好みが分かれるかもしれない。にもかかわらず、このゴシック美学の完全な実現は、Del Toroの映像作品の頂点だ。

③ 本作は、究極的には赦しについての映画だ。Del Toroは、その主張を貫くために、完全にシェリーの原作に回帰した。Victor Frankensteinの傲慢さ、Creatureの純粋さ、そしてその衝突が生み出す悲劇。これは映画というメディアで語られるべき人間的真実だ。

Metacritic – Frankenstein(2025)

批評家レビュー

ギレルモ・デル・トロの『フランケンシュタイン』は、世界中の主要な映画批評媒体から多角的な評価を受けた。ヴェネツィア国際映画祭でのプレミア以降、『Variety』『Roger Ebert』『Empire』『Deadline』など一流の映画批評誌が次々と評価を発表している。本作に対しての評価の多様性を、具体的なレビューの声を通じて理解していこう。

Roger Ebert 高い評価

Glenn Kenny(Roger Ebert初代映画批評家を継ぐ者)「Del Toroが数十年にわたって夢見た傑作がついに完成された。これは映画人が『夢のプロジェクトは現実になったとたんに失敗する』という言い伝えを打ち砕く作品である」

Del Toroは『フランケンシュタイン』を創造することで、映画史に新しい金字塔を立てた。本作は、Mary Shelleyの19世紀の原典にきわめて忠実であるとともに、現代的な視点を完全に導入している。物語は1857年のヴィクトリア朝時代に設定されており、電気という新興テクノロジーの力がより完全に機能する舞台が構築された。Oscar Isaacが演じるVictor Frankensteinは、単なる狂人の科学者ではなく、「人間が神になろうとする傲慢さ」を象徴する存在として描かれている。彼の強迫観念は科学の追求ではなく、自らが父親から受けた虐待の痕跡を癒そうとする無意識の欲求だ。

一方、Jacob Elordiが演じるCreatureの表現は、本作の最大の美点だ。肉体的には怪物である彼が、知性を獲得することで「世界に根付く場所がない」という実存的な孤立感に苛まれていく過程が、映像を通じて痛々しく描出されている。Elordiの無言の演技、特に瞳と身体の動きは、数十年ぶりのフランケンシュタイン映画化において、「怪物こそが人間である」というテーマを完全に実現させている。

評価点

Del Toroは本作を通じて、単なるホラー映画の枠組みを完全に超越した芸術作品を創造した。映像美は圧倒的で、各フレームが19世紀ゴシック文学の挿絵から飛び出したかのような完成度を持つ。特に北極圏での氷の表現、ハルランダーの邸宅の地下室、そして最終的な赦しのシークエンスは、映画におけるビジュアル表現の最高峰だ。さらに、本作がShelly原典の哲学的深さを完全に映像化した点は、映画としての成就の証だ。

批判点

本作の尺である2時間29分は、特に第二幕において若干の冗長性をもたらしている。Creatureが盲目の老人から文学を学ぶシークエンスは美しいが、全体の物語テンポに対しては減速効果となっている。また、Del Toroの映像的完璧性への追求が、ある種の「感情的操作」へと転化しているとも感じられ、その点において映画の自然な流れを妨げる可能性がある。

(Roger Ebert – Frankenstein(2025))

Variety 混合評価

Peter Debruge(Variety筆頭批評家)「この長年の構想は、Del Toroの夢のプロジェクトのはずだった。しかし現実が夢の完全性には勝てぬことは往々にしてある」

Varietyの批評は、Del Toroの『フランケンシュタイン』に対し、その映像的な達成を認めながらも、全体的な構成における問題点を指摘している。確かに視覚的には美しい作品だ。しかし、Del Toroが映像化を夢見ていた時間の長さ(1990年代後半から2025年まで)に比例して、完成作品に対する期待値が過度に高くなっていた可能性がある。

Peter Debrugeが特に指摘しているのは、映像的な「圧迫感」だ。超広角レンズの多用は、映画を「より多くの情報を凝縮する」という意図で使用されたはずだが、結果として画面が「小さく感じられる」という逆説的な現象を生み出している。さらに、Creatureの視点と Victor Frankensteinの視点を物語の途中で交換するという構成は、原作への忠実さをもたらす一方で、ナラティヴのショックを減少させてしまっている。

評価点

Del Toroは本作において、Mary Shelleyの『フランケンシュタイン』の真髄を理解している。原作の「被造物が言語を習得することで深まる苦悩」というテーマが、完全に映像化されている。Oscar Isaacが「科学者というより拷問された芸術家」として演じられることで、Victor Frankensteinという人物の複雑性が明らかになる。また、制作規模として$120ミリオンという莫大な予算が、徹底した美術による完全な世界観構築をもたらしている。

批判点

映像的完璧性の追求が、ストーリーの緊迫性を減弱させている可能性がある。Dan Laustenのシネマトグラフィーは技術的に優秀だが、その完璧性がかえって観者の感情的な没入を妨げる側面がある。さらに、Creatureが理性を獲得した後の後半部は、物語としての勢いが低下し、2時間29分という尺の中での息切れが避けられない。

(Variety – Frankenstein(2025))

Empire Magazine 高評価

「Del Toroは、この古典的な物語を、彼自身の個人的ビジョンとMary Shelleyの原典敬意の融合として完成させた。本作はゴシック・ロマンティシズムの最高傑作である」

Empireの批評は、Del Toroの『フランケンシュタイン』を完全に肯定的に評価している。特に、本作が「ゴシック・ロマンティシズムの傑作」として位置づけられていることは重要だ。Del Toroの『Crimson Peak』や『Shape of Water』と同様に、本作も単なるホラー映画ではなく、暗い詩情とロマンティックな悲劇性に満ちた作品である。

Jacob Elordiのクリーチャー像は、従来のフランケンシュタイン映画化における怪物イメージを完全に一新させた。彼は暴力的であると同時に、深い感受性を持つ存在として描かれている。Oscar Isaacが演じるVictorとの対比において、「誰が真の怪物なのか」という問いが、映画全体を通じて遺存するのだ。

評価点

Del Toroの映像表現は、各フレームがビジュアル・アートとしての完成度を持つ。Kate Hawleyの衣装デザインは、各キャラクターの心理状態を色彩とシルエットで表現している。Tamra Deverellのプロダクションデザインは、ハルランダーの邸宅を一種の「死の宮殿」として構築した。Alexandre Desplatのスコアは、ロマンティックな悲劇性を音楽的に昇華させている。全てが調和し、映画というメディムの完全な実現をもたらしている。

批判点

一部の批評家が指摘しているのは、映像的な「過剰性」だ。毎フレームの完璧さは、ある種の「やり過ぎ」であり、観者に対して感情的な息継ぎの時間を与えない。さらに、Del Toroが「アーティスト・ビジョン」を優先させるあまり、物語としての自然な流れが損なわれている側面もある。特に第二幕の展開においては、その傾向が顕著だ。

(Empire – Frankenstein(2025))

Deadline 好意的評価

Pete Hammond(Deadline映画批評家)「Del Toroは怪物映画というジャンルに対し、哲学的な深さとヒューマニティをもたらすことに成功した。本作は、単なるスペクタクル映画ではなく、『人間らしさとは何か』という根本的な問いに向き合っている」

Deadlineの評価は、本作のテーマ的な深さを強調している。Del Toroの「怪物への共感」というフィルモグラフィー上の一貫性が、『フランケンシュタイン』において最高の表現形態に達しているという指摘は的確だ。Victor Frankensteinの虐待的な父親像、Creatureが愛情を求める本質的な欲求、そしてElizabethの献身。全てが、「人間の本質」を問い直す物語として完成されている。

評価点

Oscar Isaacが「人間が神になろうとする傲慢さ」の象徴として、的確に表現されている。Jacob Elordiの無言の演技は、言語以上のコミュニケーション能力を発揮している。本作は、映画の表現可能性の限界を押し広げる作品として、映画史に記録されるべき傑作だ。

批判点

尺の問題は避けられない。2時間29分という長さは、特に現代のシネマ観客にとって、若干の障壁をもたらす可能性がある。また、Del Toroの完璧主義が、ときに感情的な自然性を損なう側面もある。

(Deadline – Frankenstein Reviews and Reactions)

個人的な感想評価

ギレルモ・デル・トロの『フランケンシュタイン(2025)』は、映画における「完成度」と「感動」の関係性について、観者に深い問いを投げかける。完璧な映像美と、人間的な温もりの両立を求めることは、本来的には矛盾する欲求である。しかし本作は、その矛盾をしたがって乗り越えた。

最大の成就は、Jacob Elordiのクリーチャー表現にある。彼が体を覆うプロテーゼの下から放つ悲哀と優雅は、映画史において新しいアーキタイプを創造した。被造物が「何もできない無力な存在」ではなく、「創造主をも上回る人格を持つ生命」として描かれることで、「誰が本当の怪物なのか」という古い問いは完全に更新された。Oscar Isaacのスケール感のある演技も傑出しており、父親からの虐待を受けた科学者が、自分の造物に同じ虐待を繰り返す悲劇的なサイクルは、社会的現実と映画的虚構の境界を消滅させている。

映像的には、ゴシック美学の完全実現であり、各フレームが詩的でありながら、同時に映画的である。しかし、その完璧性が鑑賞体験において「息継ぎ」を奪う側面があることは否定できない。完璧であればあるほど、人間的な脆弱性、つまり芸術作品が必要とする「不完全性」が減少していく。その点に関しては、一部の批評家の指摘は正当である。だが総合的には、Del Toroが本作で成し遂げたのは、古典文学の映像化における新しい地平の開拓であり、同時に「人間とは何か」という問いへの、映画的答案の提示である。

まとめ

『フランケンシュタイン(2025)』は、映画『フランケンシュタイン』の映像化史上、最も野心的でありながら最も成功した作品だ。期待度は非常に高かった。制作に$120ミリオンという莫大な予算が投じられ、ギレルモ・デル・トロが人生の大半をかけて温め続けた企画である。その期待に対して、本作は映画的な完成度、俳優陣の演技、映像的な美しさ、そしてテーマ的な深さのすべての側面で応答した。

海外での評価は概ね好意的である。Rotten Tomatoesでの批評家スコア86%、観客スコア82%、IMDb 7.8/10、Metacritic 78/100という数字が、本作の広範な支持を示している。特にJacob Elordiのクリーチャー表現、Del Toroの映像美学、そしてMary Shelleyの原典への敬意が、一貫して称賛されている。

一方で、映画の尺(2時間29分)に関する異論、そして完璧さゆえの「人間らしさの希薄化」という指摘も存在する。映画批評において「完璧性」と「感動」は必ずしも一致しないという命題を、本作は見事に体現している。しかし、その葛藤もまた、Del Toroの作品に対する真摯な向き合い方を示しているのだ。

『フランケンシュタイン(2025)』は、単なるSF怪物映画ではなく、家族の傷、虐待の世代連鎖、そして究極の赦しについての映画である。古い物語を通じて、現代の社会的現実――SNSの暴力性、人間関係の破断、そして「誰が本当に怪物なのか」という問い――が浮き彫りにされる。ギレルモ・デル・トロは、Mary Shelleyが1818年に著した古典を、2025年の映画として完全に更新した。本作は、映画というメディウムの可能性の限界を拡張した傑作として、映画史に記録されるべき一作である。

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