
伝説的俳優の8年ぶりの復帰作――『アネモネ/Anemone』は2025年10月3日に北米で限定公開された、ロナン・デイ=ルイス監督による心理ドラマである。3度のアカデミー受賞者ダニエル・デイ=ルイスが2017年の『ファントム・スレッド』以来、映画界に復帰する契機となった本作は、息子ロナンが監督・共脚本を務めた極めて個人的で野心的な作品だ。イギリスとアメリカの合作で、2025年ニューヨーク映画祭でワールドプレミアされた。本記事では、映画『アネモネ/Anemone』の結末に至るまでの全プロットをネタバレ解説し、複雑に分かれた海外の評価を整理する。
本作は北イングランドを舞台とした家族ドラマであり、兄ジェム(ショーン・ビーン)と弟レイ(ダニエル・デイ=ルイス)という二人の男の関係を中心に展開する。数十年前の歴史的暴力と個人的な悲劇によって引き裂かれた二人の再会は、決して喜ばしいものではなく、深い遺恨と未解決の心理的傷跡に満ちている。
本作の制作陣はダニエル・デイ=ルイスとその息子ロナン、脚本も両者による共作である。製作はブラッド・ピットのプロダクションプランB。初の映画化作品となったロナン・デイ=ルイスは、画家としての視覚的洞察力を映像化に転換させた。撮影監督ベン・フォードスマンは『ラブ・ライズ・ブリーディング』で高い評価を得た新進気鋭の人物。
主演はダニエル・デイ=ルイス、共演にショーン・ビーン、サマンサ・モートン、サミュエル・ボトムリー、サフィア・オークリー=グリーンが参加。音楽はボビー・クルリックが担当。本作はダニエル・デイ=ルイスの8年ぶりの出演、そして息子ロナンの映画監督としての初作品であり、家族プロジェクトとしてのユニークさが国際的な注視を集めている。
本記事は『アネモネ/Anemone』の結末と重要なプロット要素を完全にネタバレする。必ず劇場で鑑賞してから読み進めていただきたい。また本作は成人向けドラマであり、暴力、トラウマ、性的な内容に関する言及を含むため、注意を要する。
『アネモネ/Anemone』あらすじ結末ネタバレ
ここから先は『アネモネ/Anemone』の結末を含む重要なネタバレを多分に記載する。映画の中核を占めるプロット展開を時系列で追跡することで、本作のテーマ的複雑性を理解する一助となるだろう。
アイルランド紛争と家族の傷
子供の絵だろうか、20世紀のアイルランド独立闘争と英国統治への反抗で描かれている。人間同士の暴力と政治と軍の圧政、打ちのめされているのはいつだって国民である。この映像からこの映画が政治的暴力と個人的暴力の結合を暗示しているように思える。
1990年代、北イングランド、元兵士ジェム(ショーン・ビーン)は神に祈りを捧げている。彼は敬虔なカトリック信者であり、毎朝の「弱くなるまい」「怠けまい」と唱えている。祈りの内容からジェムが深刻な罪悪感に苛まれていることが理解できる。
そこでジェムは妻のネッサ(サマンサ・モートン)と息子ブライアン(サミュエル・ボトムリー)と3人で暮らしている。
ジェムには弟のレイ(ダニエル・デイ=ルイス)がいる、しかしレイは現在森の奥深くに隠棲しており、二人の関係は複雑で、長年にわたる沈黙によって深く傷つけられているが詳細はまだ判明しない。
息子のブライアン(サミュエル・ボトムリー)が陸軍から帰還した際に、同僚に対する暴力的な行為により兵舎から送還された過去を持つが、ブライアンには心理的に不安定な状態にあり、その根底にはレイとの断絶された”父子関係”が横たわっている。実はかつてレイはネッサと結婚し、ブライアンを妊娠中にネッサたちから逃げるように親としての義務を放棄して森に逃げた過去をもつ。ジェムはその後、ネッサと結婚し、ブライアンを義理の子として育ててきた。
ジェムはある日、衝動的にバイクで兄に会いに森の奥へ向かう。緊急時と書かれたメモにはただ座標が書かれているだけで、二人の距離感が垣間見える。バイクを隠したジェムは獣道を歩いていく。
ジェムは、妻ネッサからのレイ宛の手紙を持参していた。ネッサはレイに対して、ブライアンと向き合い、父親としての責任を果たすよう懇願する内容の手紙を記していた。いつまでも互いに沈黙することはできない、ついに対話を試みたのだ。
隠遁生活の中での対話
レイはジェムの到来に対し、明確な歓迎も拒絶も示さず、静寂と無関心で応える。兄弟は、小屋、森、自然環境の中を移動しながら、多くの時間を沈黙の中で共有する。ジェムがレイに語りかけても、レイは簡潔な返答か、さらなる沈黙で応じることが多い。この沈黙は二人の間に横たわる20年以上の時間の重さ、そして言葉では埋められない感情的な距離を象徴している。
ジェムは小屋の中で、レイが保存していた品々を発見する。その中にはネッサが何度も記したであろう手紙の積み重ねがあり、さらにはブライアンが幼少期に描いたとおぼしき絵画も収蔵されていた。これらの品物は、レイが完全に家族を放棄したのではなく、むしろ彼が家族への想念を意図的に抑圧し、物理的距離を通じて心理的な断絶を保とうとしていたことを示唆している。
ネッサからの手紙を渡されたレイは読むことはなく眠ってしまう。翌朝読んだかと尋ねても読むわけないだろと悪態をつくだけだった。しかし二人は翌朝になると互いに海に入り遊び始める。兄弟の中は元々悪くないようだ、時間が二人の気まずい関係性を溶かしているように見える。
夜、二人が沈黙を肴に酒を飲んでいるとレイが沈黙を破って初めて語るのは、彼の子ども時代の虐待についてである。彼はペドファイルである一人の神父に性的虐待を受けたという過去をジェムに打ち明ける。成人となったレイは、多年後になって、その神父と再会する機会を得た。だが神父はレイを認識せず、レイはこの再会を利用して復讐を遂行する。レイは神父を誘い込み、その後、カレーとギネス・ビールに大量の下剤を混ぜた飲物を飲ませ、神父の顔面に対して極限の屈辱を与えるという方法により、彼の復讐を実行に移したという話だった。
北アイルランドの紛争と戦争犯罪
やがてレイがジェムに打ち明ける、レイは北アイルランドの紛争(ザ・トラブルズ)の時代に、イギリス軍の兵士として従軍していた。彼の部隊は、爆弾製造者とその十代の甥である少年が潜んでいるとの情報を基に、ある小屋の周辺を監視していた。
しかし、爆発装置が偶発的に作動し、爆弾製造者と少年は両名ともに致命的な損傷を受けた。レイの部隊が建物の内部に進入した際、少年は地面に横たわり、全身が血まみれであり、爆弾製造者の歯が少年の頭部に埋め込まれている状態であった。少年は苦悶の中で母親を呼び、自分の苦しみを終わらせてくれるようレイに懇願する。
レイは、少年が既に死亡が不可避であると判断し、彼に銃弾を撃ち込んだ。だが、この時点で少年は丸腰であり、撃つ権利はレイにはなかった。この行為は軍事法廷において戦争犯罪と認定され、レイは不名誉な除隊処分を受けることとなった。
レイはこの行為を「慈悲の殺害」と正当化しようとしていたが、同時に彼の心は確実に損傷を受けていた。数十年が経過した現在、レイはこの瞬間において自分がいかなる感情状態にあったのか、その記憶を失っている。彼は少年の憎悪に満ちた表情を覚えているが、自分自身がどのような心理状態にあったのか、その詳細な動機を想起することができないのである。
彼は自らの行為が「慈悲」から生じたのか、それとも「残酷さ」から生じたのか、あるいはその両者の混在であったのか、確実に判断することができない状態にある。この確実性の欠如が、レイに深刻な心理的苦痛をもたらしている。彼は自らの行為を正当化できず、同時にその非難も完全に受け入れることができない状態に陥っているのだ。
レイの告白を聞いたジェムは立ち上がると踊り出しレイと一緒にあの頃のように笑ってふざける兄弟として今この瞬間を楽しむのだった。
妻ネッサの希望とブライアンの怒り
一方、ネッサはレイに対する希望を捨てていない。彼女はブライアンに対して、レイの過去について語る。彼女はレイが「良い人間であり、勇敢な人間である」ことを強調し、彼の逃亡は北アイルランド紛争における心理的外傷の結果であることを説明しようとする。彼女は、レイが本質的には良心に苛まれた人間であり、家族への愛情は失われていないことを暗に示唆している。
しかし、ブライアンはネッサの説明に納得しない。彼は父親レイに対する怒りと軽蔑を抱えており、血縁関係のみで親子関係が成立するとは考えていない。だから自分の父はジェムだと母に何度も吐き捨て、父親として責任を放棄した人物に対して、息子としての尊敬や愛情を持つことができないのだ。
レイがジェムに自らの戦争犯罪について告白した翌夜、レイは水辺の近くで奇妙な生物に遭遇する。それは馬のような形状を持ちながらも、人間の子どもが描いたような稚拙な線描特徴を持つ光る生物である。その生物が発する形態は流動的であり、接近するにつれて、その内部に内臓のような構造が蠢動し、ゆがんだ顔面と陰部のような器官が露出する。
この奇怪な生物の解釈はさまざまな憶測を呼ぶが、この生物はレイが失った無垢さの混合体であり、彼自身の心理的な腐朽の具体化であると解釈される。水から出現する生物という設定は、レイの感情的な風景――沈黙、孤立、そして内向的な苦しみ――を外部化したものと解釈できる。
聖書的な雹嵐
ブライアンが自分の寝室に座っている夜、突然、野球ボールサイズの雹がベッドの上に落下する。その直後、旧約聖書に記される十の災厄を思わせるような大規模な雹嵐が突如として街に降りかかるのをブライアンは目撃する。この天候現象は、町全体と森の領域の両方を襲う。全ての住民は、この圧倒的な自然の暴力の前で、驚愕と恐怖に支配される。
雹嵐の翌朝、レイとジェムは小川の中に、嵐により致命傷を受けた神話に出てくるような巨大な魚の死骸が流されているのを目撃する。この死んだ魚は、レイ自身の象徴的な表現として機能する。孤立の中で、ゆっくりと息絶えていく生物、家族と社会から完全に切断された存在としてのレイの状態を体現しているのだ。
レイは魚の死体が流れていくのを見届けながら涙を流し始める。そのまま小屋に戻ったレイはジェムを殴りつけ、ジェムは驚くがレイが気が済むまで互いに殴り合いを続け、強烈な一撃をもらったレイは仰向けに倒れると大泣きを始める。この嵐は、レイの内面的な感情的嵐――彼の罪悪感、怒り、そして長年の沈黙の堰を破る決定的な象徴だったのだ。
結末ネタバレ:希望
雹嵐による自然的暴力と、その象徴的な意味を体験した後、レイはジェムの懇願に応じ、森からの出発に同意して兄のバイクにまたがる。
レイとジェムはついに家に到着すると、レイはネッサとブライアンが玄関先に立っているのを見る。彼は数十年ぶりに、自分の妻と息子の前に立つ。
道路で立ち尽くすレイをしばらく見ていたネッサは家に戻りブライアンを呼ぶ。奥からブライアンが現れ言葉にできない表情でレイを見つめている。二人を見届けたレイがついに家に向かって一歩を踏み出すシーンで物語は終了する。
エンディング考察
映画はこの対面の詳細を明示しない。しかし、レイの表情は、かつての防御的で怒りに満ちた状態から、静かで落ち着いた表情へと変化している。彼の身体は、長年の隠遁生活により損傷を受けた状態にあるが、彼の心には何らかの変化が生じている。彼は玄関に向かって歩みを進める。
映画はこの瞬間で終結する。レイとブライアンの最初の対話は画面に映されない。しかし、彼らが対話を行うことが暗示される。ブライアンはレイに対する怒りと軽蔑をいまだに抱いているかもしれない。あるいは、ネッサを通じて、彼は父親への理解を深めているかもしれない。映画は確実な和解や救済を提示しない。
代わりに、映画は微妙で断片的な希望を提示する。それは、長年の沈黙と隔絶を経た後、対話の可能性が開かれたということに他ならない。完全な赦しはもたらされないかもしれないが、破損した家族関係の修復への第一歩が踏み出されたのである。
『アネモネ/Anemone』作品情報
本作『アネモネ/Anemone』の制作陣と基本情報を紹介する。ロナン・デイ=ルイス監督による映画初作品は、父ダニエル・デイ=ルイスとの共作脚本というユニークな背景を持つ。製作はブラッド・ピットのプロダクション・プランB。2025年ニューヨーク映画祭でワールドプレミアされ、その後フォーカス・フィーチャーズにより北米で劇場公開。イギリス・アメリカ合作で、ジャンルは心理ドラマ。レイティングはR指定。
興行収入
本作は限定公開という形式であったため、興行成績は参考値に留まる。10月3日の限定公開から10月10日の全米拡大を経て、アートハウス系映画館での堅調な上映が続いている。映画館あたりの平均興行成績は、その限定公開性にもかかわらず相応の水準を示唆している。本作は大型商業映画ではなく、成人向けドラマとしての位置付けを反映した配給戦略が採用されている。
ロナン・デイ=ルイス監督情報
ロナン・デイ=ルイスは画家としてのキャリアを持つアーティストであり、『アネモネ/Anemone』は彼の映画監督初作品である。彼は美術的視点を映像制作に転換させることで、極めてビジュアルに洗練された作品を生み出した。父親との共作という構図は、単なる「親の名声を活用した映画化」ではなく、二人の創造的協働による有機的な作品生成プロセスを示唆している。
ロナンの美術的背景は、本作の映像言語に直接的に反映されている。彼が採用した象徴的なイメージ、色彩の使用方法、構図の工夫などは、映画美学と絵画美学の融合を示すものである。評論家たちは、ロナンのデビュー作としてこの映画を「野心的で、視覚的に洗練されており、映像表現の可能性を示唆する作品」と評価している。彼の今後の映画製作活動に対する期待は、本作の映像的完成度によって大いに高まっているのだ。
主演 レイ役「ダニエル・デイ=ルイス」情報
ダニエル・デイ=ルイスは3度のアカデミー賞受賞者であり、現代映画史における最高峰の俳優である。彼は2017年の『ファントム・スレッド』以来、公式には「引退」状態にあった。その彼がこの作品で映画界に復帰することは、国際的な映画ニュースとなった。
デイ=ルイスの演技キャリアは、完璧主義と深い心理的探求で知られている。『マイ・ビューティフル・ランドレット』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『ファントム・スレッド』などの傑作に彼は内的深度をもたらした。
本作『アネモネ/Anemone』において、彼は長期間の隠棲生活を送る心理的に傷ついた男性を演じる。彼の演技には、社会からの隔絶、未解決のトラウマ、兄との複雑な感情、そして不完全な赦しへの道程を複合的に表現する深さが備わっている。批評家たちは一致して、本作における彼の演技を賞賛しており、多くが「彼の出演がなければこの映画は成立しない」という評価を下している。
主演 ジェム役「ショーン・ビーン」情報
ショーン・ビーンはイギリスの誠実な俳優であり、『ゲーム・オブ・スローンズ』『ゴッズ・ジェネラル』など多数の傑作テレビシリーズに出演してきた。本作ではジェムという、敬虔ながらも罪悪感に苛まれた元兵士を演じている。
ビーンのキャスティングは当初、多くの観客に驚きをもたらした。派手な演技で知られるデイ=ルイスとの対比として、彼は抑制された、観察的、そして内向的な演技を提供する。ジェムの祈りのシーン、妻ネッサとの家庭内対話、そして兄レイとの森での対峙――これらのすべてにおいて、ビーンは最小限の身体表現と台詞で、最大限の感情的深度を表現している。批評家たちは「ビーンは、デイ=ルイスの豪華な演技の最高のフォイル(対比役)となっており、この配置が映画全体の完成度を高めている」と評価している。
海外の感想評価まとめ
『アネモネ/Anemone』は海外で極めて複雑で分極した評価を得ている。一方ではダニエル・デイ=ルイスの復帰と彼の圧倒的な演技力を讃える声が強く、他方ではロナン・デイ=ルイスの脚本と演出上の野心が結果として欠陥をもたらしたという批判が存在する。本作はアート・フィルムの典型的な分極を示す作品である。海外レビュアーたちの詳細な評価を見ていこう。
IMDb(総合評価:5.7/10)
① デイ=ルイスの復帰は疑いなく映画的なニュースであり、多くの観客は彼が8年ぶりに画面に戻ることを心待ちにしていた。本作を視聴した観客からは、彼の演技力がいまなお衰えていないことへの驚嘆と賞賛の声が聞かれる。彼の一つ一つの視線、身体の動き、台詞の抑揚――これらすべてが精密に計算された、かつ内的な誠実性を備えた表現となっている。彼は俳優という職業の最高峰に位置する人物であり、本作はその証拠を再び示したのだ。
② 脚本の曖昧性は、一部の観客には「深い芸術的葛藤」として評価されるが、他の観客には「不十分な説明」として受け取られる。映画がある時点で曖昧性を放棄し、より具体的な説明へ向かわないことで、感情的な満足度が低下する観客も存在する。映画の中核となる過去の出来事が、明確には説明されないままであり、それは意図的な表現手法である可能性が高いにもかかわらず、観客によっては不満の源になるのだ。
③ 映像の美しさについては、ほぼ全ての観客が認める。北イングランドの樹海の灰色の景観、激しい気候、孤立した小屋の周囲の自然環境――これらすべてが映画的な完成度を備えている。撮影監督ベン・フォードスマンの仕事は称賛に値し、彼の映像言語はロナン・デイ=ルイスのビジュアル・ビジョンと完璧に調和している。
④ 音響設計と音楽スコアについても、高い評価が付与されている。本作は過度なサウンドスケープを避け、自然音と緊張感のある音響効果により、心理的な緊迫感を醸成している。ボビー・クルリックの音楽は控えめでありながら、映画の感情的トーンを効果的に支持している。
Rotten Tomatoes(批評家:56% / 観客スコアあり)
① 本作に対する批評家の評価は、その分極ぶりが顕著である。56%という批評家スコアは「わずかに肯定的」を示唆しており、評論家集団の中に深刻な意見の相違が存在することを明確に示している。一部の批評家は本作を「年間最高傑作」と評価し、他方では「失敗作」と判定するという、極端な分岐が生じているのだ。
② 「映像の洗練度と演技力に比して、ストーリー構造と対話が十分に発展していない」と指摘する。特に、映画が複数の時間軸、複数の登場人物の視点を導入するにもかかわらず、各要素が有機的に統合されていないという批評が繰り返される。
③ ロナン・デイ=ルイスの初監督作品であることが評価に影響している可能性もある。一部の批評家は「若き映像作家の大胆な実験」として映画を好意的に評価し、その欠陥さえも「成長の過程の表現」として許容している。他方では「名門家系の息子による、経験不足の作品」として厳しく判定する批評家も存在する。
④ ダニエル・デイ=ルイスの復帰については、批評家群も観客群も一致して賞賛している。彼の演技はスコア低迷の中でも「唯一の確実な価値」として機能し、多くの評論が「彼がいなかったら本作は完全な失敗に終わったであろう」と述べている。
Metacritic(総合評価:55/100)
① Metacriticスコア55は「混合的、あるいは平均的」を示唆する加重平均である。37人の批評家の評価を統合した結果、映画は「肯定と否定が拮抗している」というステータスに位置づけられた。これは本作が単純に「良い」あるいは「悪い」と判定不可能であることを示唆している。
② スコアの内訳を見ると、高評価(80点以上)と低評価(50点以下)が同程度の数存在していることが明白である。ローリング・ストーン誌は90点という高スコアを付与し、サンフランシスコ・クロニクルは40点という低スコアを付与している。この50点の開きは、批評コミュニティ内における深刻な見解の相違を示唆しているのだ。
③ 中程度のスコア(60-75点)を付与した批評家たちは、概ね「デイ=ルイスの演技と視覚的美しさは称賛に値するが、脚本構造と物語の完成度は平均的である」という評価を下している。この見解は、本作がそのスター俳優の力によって支えられた映画であるという共通認識を示唆しているのだ。
④ 批評家たちが特に注目したのは、ロナン・デイ=ルイスの映画的野心である。幾つかの批評では「初監督作品とは思えない視覚的洗練度と美学的意識の高さ」を称賛する一方で、「経験不足ゆえの脚本面での未熟性」を指摘している。つまり、技術的には優秀であるが、ストーリーテリングの領域ではまだ成長の余地がある、という評価が現れているのだ。
批評家レビュー

『アネモネ/Anemone』の海外批評家からの評価は、映画業界内における世代交代、継承、そして芸術的志向についての複雑な議論を生み出している。父と息子による協働プロジェクトという特殊性が、評価に微妙な影響を及ぼしているのだ。複数の主要媒体による批評を紹介する。
Variety B
ピーター・デブリュージュ氏「ダニエル・デイ=ルイスの復帰は映画界への祝福であり、その一方で息子ロナンのビジュアル野心は注視に値する」
ハリウッドの主流媒体Varietyの評論家は、本作に対してかなり好意的な立場を採用している。彼のレビューは、デイ=ルイス現象を文化的イベントとして位置づけ、8年間の「引退」からの復帰を喜ぶという基調を保っている。デブリュージュは本作の脚本的欠陥を認識しながらも、それを「若き映像作家による実験的な表現」として許容する立場を示している。
デブリュージュが強調するのは、本作が単なる演技ショーケースではなく、ロナン・デイ=ルイスという新しい映像作家の登場を意味するものであるという点だ。彼は画家としての背景を持つロナンが、映像言語に新たな視点をもたらしていることを評価している。特に、北イングランドの自然景観を映画的に統合する手法、象徴的イメージの使用、時間的曖昧性の表現方法などが、彼の関心を引いているのだ。
一方、デブリュージュは脚本の構造的問題を指摘する。映画が複数のプロット線を導入しながら、それらが有機的に統合されていないという批評は、本作を語る多くの評論に共通する指摘である。しかし彼の評価では、この構造的問題さえもが「意図的なアート・フィルム的手法」として解釈される。
評価点 ダニエル・デイ=ルイスの圧倒的な演技。ロナン・デイ=ルイスの視覚的野心。撮影監督ベン・フォードスマンの映像美。自然風景の映画的統合。象徴的イメージ表現。
批判点 脚本構造の曖昧性。複数プロット線の未統合。感情的克服の不完全性。説明的不足。
Roger Ebert C+
モニカ・カスティーロ氏「野心的だが未成熟――本作は映像的には洗練されているが、ストーリーテリングの領域ではまだ成長の途上にある」
ロジャー・エーベルト・ドット・コムの批評家モニカ・カスティーロは、本作に対してより批判的な立場を示唆している彼女の評価は「野心的だが要改善」というニュアンスで満たされている。カスティーロはロナン・デイ=ルイスの映像的才能を認識しながらも、彼の脚本・演出上の未熟性を指摘する。
カスティーロによれば、本作は「スタイル・オーバー・サブスタンス」の典型的事例である。美学的には洗練されているが、物語の中核において説得力に欠ける。映画は「父と息子の関係」「兄弟の和解」「家族内暴力の世代的継承」といった複数の主題を提示するが、それらが有機的に統合されず、観客に対する感情的深度を確立できないというのが彼女の主張だ。
カスティーロが特に指摘するのは、映画が「説明を拒否する」ことによって、却って観客の関与を阻害しているという点である。映画が過度に曖昧であり、観客の想像に過度に依存することが、感情的な訴求力を減少させているという批評は、本作に対する批判的レビュー全般に共通する特性である。
評価点 ロナン・デイ=ルイスのビジュアル・ビジョン。自然環境の象徴的利用。ダニエル・デイ=ルイスの演技。撮影映像の美しさ。
批判点 脚本の曖昧性による感情的距離。物語主題の統合不足。説明不足による観客の困惑。ストーリーテリング技法の未熟性。
The Guardian B
アイアン・アストン氏「見る価値がある映画だが、その価値のほぼすべてはダニエル・デイ=ルイスの肩にかかっている」
イギリスの権威ある映画評論誌The Guardianの批評家イアン・アストンは、本作に対して複雑で均衡のとれた評価を提示している。彼の基本的立場は「ロナン・デイ=ルイスは映画製作者としての才能を示唆しているが、本作がその才能を完全に実現できたとは言い難い」というものである。
アストンはロナンの映像的野心を肯定評価しながらも、脚本の欠陥に厳しい指摘を加える。彼によれば、映画は「スタイル的には誠実で野心的である一方で、ナラティブ的には回避的である」。つまり、監督は視覚的美学に依拠することで、物語的な困難に向き合うことを回避しているという批評である。
アストンが特に指摘するのは、映画が第三幕へ進むにつれ、その自らの世界から逃出してしまうという点だ。幻想的要素の導入は本来的には興味深い選択であるが、映画がそれを十分に統合できておらず、結果として観客は「映画が自らの表現形式の制御を失った瞬間」を目撃することになるという指摘である。
評価点 若き監督の映像的野心。自然環境の象徴的利用。ダニエル・デイ=ルイスとショーン・ビーンの二者関係。撮影映像の洗練度。
批判点 脚本構造の回避的性質。ナラティブの不完成性。第三幕での表現形式の崩壊。説明的不足。登場人物動機の曖昧性。
The Guardian – Anemone reviews
The Telegraph B+
ティム・ロビー氏「親と息子による協働は、時に美しく、時に欠陥を深刻にする。本作はその両者を示す」
イギリスの保守系新聞The Telegraphの映画批評家ティム・ロビーは、本作に対して比較的好意的な評価を下している。彼の基本的なスタンスは「本作は見る価値がある作品である」というものだが、その理由は「成功」ではなく「雄大な試み」にあるという。
ロビーが強調するのは、親と息子による映画製作という珍しい形式そのものが、映画にユニークな質感をもたらしているという点だ。ダニエル・デイ=ルイスが脚本に参加することで、彼の経験と洞察が映画に深度をもたらし、ロナンの映像的野心がそれを視覚化する。この協働は、完璧な調和をもたらすことはなかったが、十分に興味深い作品を生み出したというのが彼の評価である。
ロビーは脚本的欠陥を認識しながらも、それを映画全体の価値を損なうものとは見なさない。むしろ、欠陥の存在自体が、映画の「真摯で未完成な実験的性質」を示すものであると解釈する。彼の批評的立場は、アート・フィルムの文脈において、技術的完璧性よりも芸術的志向を優先するものである。
評価点 親子による協働プロジェクトとしてのユニークさ。ダニエル・デイ=ルイスの演技的深度。ロナンの映像美学の洗練度。象徴的イメージの効果的使用。兄弟関係の表現。
批判点 脚本構造の複雑性の過度さ。説明的不足。感情的統合の不完全性。第三幕での表現形式の変化への対応不足。
The Telegraph – Anemone review
個人的な感想評価
『アネモネ/Anemone』を視聴して最初に感じるのは、その一貫した視覚的美学と、ダニエル・デイ=ルイスの圧倒的な演技の調和である。本作は完璧なドラマではなく、むしろ「進行中の実験」である。ロナン・デイ=ルイスが画家から映像作家へと転身したその過程が、映画全体に刻印されているのだ。
評価すべき点は、本作が「快適な物語」を提供することを拒否していることである。映画は観客に対して、不完全な理解、曖昧な感情、解決されない葛藤への耐性を求める。この要求は、現代の商業映画が通常避けるものであり、その意味で本作は勇敢である。兄弟の関係、家族内暴力の継承、政治的暴力と個人的トラウマの結合――これらのテーマは映画的表現の最難関に属するものだ。
欠点としては、映画が自らの野心に匹敵する完成度を達成できなかった点が挙げられる。脚本の曖昧性は時に深さを表現する手段となるが、時に単なる説明不足に過ぎないのだ。映画が複数のプロット線を導入しながら、それらを有機的に統合できなかったことは、構成上の弱さである。また、第三幕での幻想的要素の導入は興味深い選択であるが、それが映画全体との調和を取ることに成功しているとは言い難い。これらの欠点がなかったなら、本作はより高い地位を占める可能性があった。
まとめ
『アネモネ/Anemone』は何か。それは、一人の伝説的俳優と彼の息子による、極めて個人的で野心的な映画制作の産物である。本作は完璧な映画ではなく、しかし退屈で通俗的でもない。ダニエル・デイ=ルイスの復帰は単なる俳優の出演ではなく、映画芸術への関与の再開を意味する。彼はこの作品において、最後の引退から以前の演技的水準を維持し、むしろそれを深化させすら見せている。
ロナン・デイ=ルイスの映画監督としての初作品は、技術的には優秀であるが、ストーリーテリングの領域ではまだ成長の途上にある。彼の映像的野心と美学的感覚は明白であり、将来の作品への期待は大いに高まるのだ。本作の欠陥そのものが、若き映像作家の成長の証拠であると解釈することもできるだろう。
本作を視聴すべき観客は、従来の映画的快適性を求めない者たちであ。複雑で曖昧で、時に説明的不足である映画を受け入れることができ、その過程で自らの想像力を駆動させる用意がある観客にとって、本作は充分な価値を持つ。一方、明確なプロット展開、直線的な感情的弧、満足のいく結末を求める観客には、本作は退屈で不満足なものとなるであろう。評価は観客の期待と映画的嗜好に依存するのだ。







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