映画『SEBASTIAN セバスチャン』あらすじ結末ネタバレと海外の感想評価解説

「ただただ、美しい物語を観てほしい」ロンドンを舞台にした極めて野心的な創作のジレンマに直面する映画『SEBASTIAN セバスチャン』のあらすじ結末までネタバレと海外の感想評価をまとめて紹介する。

イギリス、フィンランド、ベルギー合作で制作された本作は原題『Sebastian』で2024年1月19日にSundance Film Festivalで世界初公開され、その後8月2日にアメリカで劇場公開された。IMDb 6.7点、Rotten Tomatoes 71%という評価を獲得した作品だ。

25歳の野心的な作家マックス(ルアリッド・モリカ)がロンドンで送る二重生活を描く本作。昼間は文芸誌で働き、自らの小説執筆に心血を注ぐ彼が、創作のリアリティを求めてセバスチャンという別名義で男性売春の世界へ足を踏み入れる。その過程で彼は真の意図と欲望、野心と自己肯定のはざまで揺れ動くことになる。

本作の監督はフィンランド・イギリス出身のミッコ・メーケラで、2017年の『A Moment in the Reeds』(邦題未定)で高い評価を得ている。主人公マックス役には新鋭スコットランド俳優ルアリッド・モリカを起用し、彼と関係を深める年上のクライアント・ニコラス役には、『タイタニック』『ハリー・ポッター』シリーズで知られるベテラン俳優ジョナサン・ハイドが好演している。

本作は2024年のフィンランド・Jussi Awardsで9ノミネーション、英国Independent Film Awardsで最優秀新人賞ノミネーションを獲得するなど、国際的な高い評価を受けている。ただし日本では未公開である。

今回は、自己欺瞞と創作への欲望が交錯する複雑な心理劇『SEBASTIAN セバスチャン』のラストまで詳細に解説していく。以下の内容は本編の結末のネタバレを含むため、必ず劇場で鑑賞してから読んでいただきたい。また、性的な描写や性暴力に関する含意を含むため、視聴時に不快感を覚える可能性がある。ご留意いただきたい。

『SEBASTIAN セバスチャン』あらすじ結末ネタバレ

ここから先は本編の重大なネタバレを含む。必ず劇場鑑賞後の閲覧推奨。

野心と創作の葛藤

25歳のマックス・ウィリアムソン(ルアリッド・モリカ)は裕福な中年男性の家を訪ねるところから物語は始まる。マックスと男性は初対面なのかよそよそしくしながらも激しく性交を行う。男性は満足したのかご満悦の様子でマックスを見送るが、帰宅途中のマックスの表情は暗く重い。

セバスチャンは帰宅後、彼とのやりとりを思い出しながら小説を執筆する。

ロンドンで文芸誌の編集者として働きながら、自らの処女作となる小説の執筆に取り組んでいた。彼はすでに短編集で作品が掲載されており、文学界での知名度は徐々にあがりつつあるが、彼の尊敬する作家ブレット・イーストン・エリスが成功を収めた年齢に彼がすでに達しているため、彼は常に焦りを感じている。時間は容赦なく流れているこの一瞬すらも彼にとっては貴重で無駄なことはできない。

マックスが執筆しようとしていたのは、ゲイ男性の売春についての小説だった。当初、彼は学生たちへのインタビューや既存の研究に基づいて執筆することを考えていた。しかし、彼の良心がそれを許さなかった。他人の人生を勝手に創作の題材にすることへの道徳的な抵抗感、そして何より「本当のストーリーを書くには、自分自身の経験が不可欠である」という信念が彼を動かし男娼になることを選択する。

覚悟を決めたマックスは「セバスチャン」というペンネームでゲイ専用のマッチングアプリに登録し、顔を隠し、鍛え上げあ裸の胸部のみを露わにしたものをアップロードし、若くみずみずしい肉体は多くの賞賛を浴び、冒頭で出会った中年男性との出会いと対話は、考えていた通りインタビューでは得ることのできない経験はインスピレーションの嵐が発生しマックスの小説は順調に記されていく。

最初の出会いからすぐ後、やがて複数の男性との関係を持つようになるが、彼らの多くは家族には自身がゲイということを隠している裕福な男性が多く、彼らの秘密の豪華なセカンドハウス、でのやりとりは執筆のための取材となっていく。

セバスチャンとマックス

マックスの二重生活は計画通りに進展し、やはりセバスチャンとしての体験から得られた素材は、極めて生々しく、真実味に満ちていたため、セバスチャンとして提出する原稿は編集部で評価されていく。しかし、編集者は称賛するものの、ページ数が少ないため商業用にはもっとページが必要であると急かされてしまうのだった。そのためにはセバスチャンとしてもっと多くの経験をしなければならないことになる。

マックスはセバスチャンとしてより多くの体験をするため、昼は編集者、夜はセバスチャンとして多くの男性と経験し、夜中に執筆して昼までに編集者に原稿を提出する日々を送るようになるが、マックスの二重生活は次第に彼に変化をもたらすようになる。本来は「小説に生かすための経験」であるはずのマックスは冷静な観測者ではなく、肉欲への欲望に喜びを感じるように変化していく。

そんな中、年老いた男性のニコラス(ジョナサン・ハイド)と出会いは、セバスチャンとして大きな経験を生み出すことになる。ニコラスは気品と知性を備えた紳士で、マックスの小説の原稿を読むことに関心を示し、彼の才能を認め、励ましてくれるその知的で優雅な会話は、マックスの心に大きな影響を与え精神的な結びつきが生まれていく。

結末ネタバレ:解放か自己欺瞞か

セバスチャンとしての活動は多くのページを生み出すようになるが、昼間の仕事は徐々に蔑ろになっていく。マックスは締め切りを逃し、指示されていた重要な課題を軽視するようになった。その結果、彼の編集者としての責任は別の人間に奪われ、彼は雑誌社内での地位を失っていった。

とある男性との出会いで財布を失い、部屋に取りに行こうとするが、男性は扉を閉ざしたままにしたため、フロントで呼び出してもらおうとするが、男性はセバスチャンなど知らないと伝えたため、セバスチャンは無一文で外に出されてしまう。それまで甘い話をしていた男性も、部屋を出た途端に秘密の出会いは終了で他人になってしまう、セバスチャンは現実を思い知ることになる。

失意の中、頼れるのはニコラスだけで、恐る恐る電話をしたセバスチャンに対し優しく応答して家に招いてくれたその優しさにセバスチャンは何かを悟るのだった。

後日、マックスが向かったのは出版記念のQ&Aイベントだった、編集者の大丈夫?という問いかけに対しマックスは「私は答える準備はできている」と告げるシーンで物語は終了する。

IMDb Sebastian plot

『SEBASTIAN セバスチャン』作品情報

『SEBASTIAN セバスチャン』は、現代のロンドンを舞台に、作家が自らの創作の真正性を求めるあまり、売春の世界へ足を踏み入れるという極めて危険で複雑なテーマを扱った作品である。本作の監督と俳優について詳しく見ていくことで、なぜこのような大胆な映画が実現されたのかが理解できるだろう。

興行収入

本作の興行成績は、限定公開という状況を踏まえると健闘したものだった。アメリカ国内での興行収入は約65,000ドルで、初週の成績は約12,000ドルであった。これはインディペンデント映画としては一般的な規模であり、映画祭での高い評価が、ある程度の観客動員につながったことを示唆している。ただし、商業的な大成功とは言えず、むしろ映画通や批評家の間での支持に重点が置かれた作品であることが明らかだ。

ミッコ・メーケラ監督情報

ミッコ・メーケラは1989年生まれのフィンランド・イギリス出身の映像作家である。東フィンランドの小さな町で育った彼は、18歳のときにイギリスへ移住し、ノッティンガム大学で英文学とフランス文学を、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで同専攻を学んだ。

メーケラの映画監督としてのキャリアは、2017年の『A Moment in the Reeds』(邦題未定)での長編映画デビューから始まる。この作品は80以上の国際映画祭で上映され、ロンドン映画祭、ゲーテボルグ映画祭、シアトル国際映画祭、サンフランシスコのFrameline映画祭を含む主要な映画祭で選出された。同作は英国Independent Film Awardsで「Discovery Award」へのノミネーションを受け、フィンランドのJussi Awards(フィンランドアカデミー賞に相当)で2つのノミネーションを獲得した。

メーケラは2022年にIndieWireから「25人の上昇中のLGBTQ映画製作者」に選ばれており、クィア映画界における重要な人物として認識されている。彼の作風は、セクシュアリティとアイデンティティという複雑なテーマを、正面から、かつ倫理的に扱うことで知られている。『SEBASTIAN セバスチャン』は彼の2番目の長編作で、Sundance Film Festival 2024のWorld Cinema Dramatic Competitionで世界初公開され、Grand Jury Prizeへのノミネーションを受けた。

メーケラは本作の後、1960年代のヘルシンキを舞台にした『Elina』という異なるジャンルの歴史ドラマを計画中で、その才能の多面性を示している。

主演マックス・ウィリアムソン役「ルアリッド・モリカ」情報

ルアリッド・シルヴィオ・ジェームス・マクギリヴレイ・モリカは1999年10月14日生まれのスコットランド出身俳優である。イタリアのプラートで生まれ、スコットランドのエディンバラで育った彼は、わずか12歳で演技を始めた。

モリカの初舞台経験は、エディンバラの青年劇場Strange Townでの出演であり、その後すぐにBBC制作ドラマ『Case Histories』でテレビデビューを果たした。その際、彼はジェイソン・アイザックスとマーク・ボナーに演技指導を受けるという貴重な経験を得た。

その後、彼は『Sunshine on Leith』でバックダンサーとして、『Stonemouth』(2015)でクリスチャン・クックの若き時代の役を務めるなど、子役業を続けていた。2018年には『Tell It to the Bees』に出演し、徐々に存在感を示し始めた。

彼の転機となったのは、2022年の短編映画『Too Rough』での主演で、同作はスコットランドBAFTA Awardsを受賞し、彼の演技の才能が国内外で認識されるようになった。同年、彼はBBC Three制作のホラーシリーズ『Red Rose』でパトリック・ヒューム役を演じ、そしてChannel 5のドラマシリーズ『Witness Number 3』に出演した。これらの作品で、彼は若き新世代俳優としてのポジションを確立した。

『SEBASTIAN セバスチャン』での主演は、モリカのキャリアにおける極めて重要な転換点となった。本作により、彼は2024年のBritish Independent Film Awardsで「Breakthrough Performance」にノミネートされ、Screen International誌の「2024 Rising Stars Scotland」に選出された。さらに、2025年のBAFTA Scotland Awardsで最優秀男優賞にノミネートされるなど、国際的な認知が急速に高まっている。

モリカはセクシュアリティについてオープンであり、自身をクィアと自認している。本作での演技は、彼自身のセクシュアルアイデンティティの探求とも深く結びついており、その真摯な取り組みが画面に反映されている。

主演ニコラス役「ジョナサン・ハイド」情報

ジョナサン・スティーヴン・ジェフリー・キング(通名ジョナサン・ハイド)は1948年5月21日生まれのオーストラリア生まれ、イギリス在住の俳優である。ブリスベンで生まれた彼は1969年にロンドンへ移住し、ロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アート(RADA)に入学した。同校での卒業時に、卒業生として最高の栄誉であるBancroft Gold Medalを受賞している。

ハイドのキャリアは舞台から始まり、ロイヤル・シェークスピア・カンパニー(RSC)の長年のメンバーとなった。『The Duchess of Malfi』でフェルディナンド役を、『The Seagull』でドルン博士役を、『King Lear』ではケント伯爵役を演じるなど、舞台での実績を積み重ねた。

1990年代から2000年代にかけてのハイドのフィルムキャリアは、極めて充実したものである。『Richie Rich』(1994)ではハーバート・キャドバリー執事役を、『Jumanji』(1995)ではサミュエル・アラン・パリシュとハンター・ヴァン・ペルトの二役を演じた。さらに『Titanic』(1997)ではJ・ブルース・イスメイ(ホワイト・スター・ラインの重役)という映画史上の悪役を、『The Mummy』(1999)では考古学者アレン・チェンバーレイン博士役を担当している。また『Anaconda』(1997)ではドキュメンタリー制作者ウォーレン・ウェストリッジを務めた。

テレビ分野でも活躍は顕著で、『Sherlock Holmes』シリーズではカルバートン・スミス役を、『Midsomer Murders』ではフランク・スマイズ=ウェブスター役を演じた。2014年から2017年まではFXシリーズ『The Strain』でエルドリッチ・パーマー役として注目を集め、BBCドラマ『Spooks』ではロシア大臣イリヤ・ガヴリク役を担当した。

『SEBASTIAN セバスチャン』でのニコラス役は、ハイドのキャリアにおいて極めて繊細で内省的な演技を求めるものであった。孤独で文学愛好家である年上のクライアントというキャラクターを、尊厳と悲劇性を持って描き出した。本作での彼の演技は国際的に高く評価され、フィンランドのJussi Awardsで最優秀助演男優賞にノミネートされた。

海外の感想評価まとめ

『SEBASTIAN セバスチャン』は、Sundance Film Festivalでの初公開以来、海外の映画祭やレビューサイトで注目を集めてきた。本作は一つの統一された評価を受けたのではなく、むしろ賛否両論が分かれ、様々な視点から議論される作品となっている。クィア映画としての重要性を指摘する評者がいる一方で、物語としての焦点の曖昧性を批判する評者も存在する。以下は、主要な国際評価サイトにおける、実際のレビュアーたちの意見である。

IMDb(総合評価:6.7/10)

① 本作の強みは、主演ルアリッド・モリカによる完璧なパフォーマンスにある。彼の演技は、マックスという人物の内部葛藤と、セバスチャンという別人格への変化を見事に表現している。ミッコ・メーケラ監督の判断的でない手法により、売春という題材が劇化されるのではなく、むしろ人間の深い心理を探求する手段として機能している。

② 映画としての視覚的美しさは印象的である。ロンドンの都市景観が、登場人物の孤独と匿名性を象徴する舞台として機能し、色彩・照明・構図のすべてが思慮深く配置されている。本作は単なる性的内容を描く映画ではなく、創作者としての倫理的ジレンマと、個人のアイデンティティ構築という普遍的なテーマを扱っている。

③ クィア映画としての視点から見ると、本作は既存の悲劇的トランス・ナラティブから脱却し、セクシュアリティの多様な表現を示唆する作品として評価できる。マックスとニコラスのあいだの世代を超えた感情的結びつきは、セクシュアリティを単なる性行為ではなく、相互理解と精神的な共有として描いている。

④ ただし、批評的観点からは、本作の物語構造にはいくつかの弱点が存在する。中盤から後半への物語の進行が若干散漫になり、マックスのキャラクターが周囲との関係のなかで受動的になってしまう傾向がある。また、セバスチャンとしての活動の重要な場面が省略されており、より詳細な描写が望まれるところもある。

IMDb Sebastian

Rotten Tomatoes(批評家:71% / 観客:67%)

① 『SEBASTIAN セバスチャン』は、一人の若い男性が二つの人生のあいだで揺れ動く複雑な肖像を提示する。ルアリッド・モリカは、恐怖と欲望、恥辱と解放という相反する感情をキャンバスに描き出す。彼の演技を通じて、観客はマックスの内面的な崩壊と再構成の過程を目撃することができる。

② 本作は売春という題材に対して、道徳的な判断を下さない。むしろ、個人が社会的な周縁に置かれるとき、その人間がどのように存在するのかという根本的な問題を提示する。ジョナサン・ハイドの演技は、特に秀逸である。彼は年上のクライアント・ニコラスという役を、単なるセックスワークの「顧客」ではなく、マックスと同じくらい複雑な内面を持つ人間として描き出している。

③ 監督メーケラの手法は、インディペンデント映画としての限界を認識しながらも、大規模な予算では実現不可能な心理的深さを追求している。映像的には控えめながら、各シーンの緊張感と意味は見事に構築されている。本作は「完璧な」映画ではないかもしれないが、確実に思考を促す作品である。

Rotten Tomatoes Sebastian

Metacritic(総合評価:53/100)

① 本作の評価が「混合」カテゴリーに分類されるのは、その複雑性と矛盾する要素の存在による。『SEBASTIAN セバスチャン』は、ある瞬間には極めて感動的で深い心理ドラマであり、別の瞬間には自己中心的で道徳的に疑わしい人物の自己正当化の物語に見える。

② 役者陣の演技は総じて高水準である。モリカの繊細なパフォーマンスは、特に注目に値する。彼は、マックスが自らの野心のために周囲の人間をどのように利用するのかを、判断的ではなく、むしろ同情的に表現している。その結果、観客はマックスという人物に対して、道徳的な判断を下せないまま映画を終える。

③ ただし、脚本としての完成度には議論の余地がある。物語は複数の方向性に引き張られており、売春そのものの経験、創作プロセス、世代間の関係性、セクシュアルアイデンティティなど、扱うテーマが多すぎるきらいがある。その結果、各テーマが十分に掘り下げられないまま映画は終わってしまう。

Metacritic Sebastian

批評家レビュー

『SEBASTIAN セバスチャン』は、映画祭での初公開から商業公開まで、様々な映画評論家からの詳細な評価を受けてきた。本作が扱うテーマの複雑性と、倫理的な問題設定により、批評家たちの評価は分かれている。しかし共通する点は、本作が、クィア映画としての重要性を持ち、また表現の自由について深刻な問いを投げかけることである。海外の主要な映画批評媒体による評価を見ていこう。

Roger Ebert 肯定的評価

モニカ・カスティーヨ氏「若き作家の野心の危険性を見詰める稀有な映画」

ロジャー・エバート・サイトの映画批評家モニカ・カスティーヨは、『SEBASTIAN セバスチャン』について極めて前向きな評価を記している。彼女の評論の核心は、本作がいかに「野心的な虚偽」というテーマに対して、正面から向き合っているかという点にある。

カスティーヨは、マックスという登場人物を「多くの若き作家たちが持つ傲慢さと理想主義の危険な混合体」と描写している。彼は自らを「完璧主義的」と考えており、創作のための「真実」を求めるあまり、実際には他者を搾取することの道徳性について深く思考しない。その葛藤が、ルアリッド・モリカの演技を通じて見事に表現されているという。

特に印象的だとカスティーヨが指摘するのは、マックスとニコラスの関係である。彼女は「世代を超えた二人の関係には、単なるセックスワーク以上の何かがある」と述べ、その精神的な絆が本作における最も美しい瞬間であると評価している。ニコラスを演じるジョナサン・ハイドの演技について、「老年の孤独と、若者との出会いがもたらす可能性的な光」を描き出していると褒賛している。

評価点 カスティーヨは、メーケラ監督の「判断的でない視点」を最大の長所と見なしている。映画が売春について道徳的な判断を下さず、むしろ社会の周縁にある人間がいかに存在するのかという根本的な問題を提示している点が評価されている。また、ロンドンという都市がいかに孤独と匿名性の舞台として機能しているか、その視覚的表現についても高く評価されている。

批判点 ただし、カスティーヨはまた、本作の「陰鬱さ」についても指摘している。映画全体が重い心理的トーンで支配されており、時として観客に対して過度な精神的負担をかけることになるのではないか、という懸念を表明している。また、物語の後半において、マックスのキャラクター発展がやや一方向的になり、より複雑な展開が可能だったのではないかという指摘もしている。

(Roger Ebert – Sebastian)

Variety 好意的評価

イレーン・チャオ氏「クィア・セクシュアリティの真摯な映像化」

映画業界で最も影響力のある媒体の一つであるVarietyは、本作について『「Sebastian」は、クィア・セクシュアリティをめぐる正直で率直な描写を提供している』と評価している。この評論を担当したイレーン・チャオ氏は、メーケラ監督のインタビューに基づき、彼が「長きにわたって、クィア・セクシュアリティが映画から遠ざけられ、検閲されてきた」という背景を指摘している。

チャオは、本作が「単なる性的内容を描く映画ではなく、アイデンティティの複雑性を映像化する試み」であると述べている。特に重要な視点として、彼女は「他のクィア映画がしばしば落ち込む悲劇的なナラティブから、本作が解放されている」ことを指摘している。セバスチャンとしてのマックスの存在は、犯罪や病気、自己滅却へと導くのではなく、むしろ自己発見と解放への可能性を示唆しているというのだ。

評価点 チャオは、ルアリッド・モリカの配役について、「この若き俳優が、このような複雑で、肉体的にも精神的にも要求の多い役柄を見事に演じている」と高く評価している。また、メーケラ監督のビジョンについて、「Sundance Film Festivalという国際的な舞台で、このような大胆な作品を世に出す勇気は、独立系映画製作者の可能性を示している」と述べている。

批判点 しかし同時に、チャオは「本作が、すべての観客にとって『容易に見る』映画ではないことを認識すべき」と警告している。性的内容の露骨さ、心理的な重さ、そして道徳的な曖昧性により、本作は特定の観客層にはアクセス困難な作品となっている可能性があるというのだ。

(Variety – Sebastian Director Mikko Makela)

Entertainment Weekly 複雑な評価

ジェームス・デッカー氏「野心的だが、焦点が曖昧な創作への問い」

Entertainment Weekly誌の映画評論家ジェームス・デッカーは、『SEBASTIAN セバスチャン』について「有意義だが、必ずしも完璧ではない」という複雑な評価を下している。デッカーは、本作の最大の強みは「問い」を投げかけることにあると述べている。つまり、「ある作品を書くために、どこまで自らを危険にさらす権利があるのか」「アーティストは、自分たちの体験と精神を商品化することが許されるのか」というテーマについてである。

デッカーの観点から見ると、マックスという人物は「単なる悪人ではなく、矛盾に満ちた複雑な人間」である。彼の野心と利己性は、同時に彼の才能と感受性と結びついている。その結果、観客はマックスに対して、道徳的な結論を下せないまま映画を終える。これは、極めて現代的で、倫理的に難しい地点である。

評価点 デッカーは、特にモリカとハイドの演技の相乗効果について注目している。二人の関係性のシーンは「映画全体の中で最も説得力があり、感動的である」と述べられている。また、メーケラ監督の「ニュアンスあるアプローチ」に対して、「過度に説教的にならず、観客に思考の自由を与えている」と評価している。

批判点 しかし、デッカーは本作の「物語的な焦点の曖昧性」を批判の対象としている。売春そのものの現実性、創作プロセス、世代間関係、セクシュアルアイデンティティなど、複数のテーマが同時に展開されることで、各テーマが十分に深掘りされていないという。結果として、観客は「複雑な風景を見せられるものの、何が本作の中心的メッセージなのかについて不確実性を残される」という問題が生じるのではないか、というのだ。

(Entertainment Weekly – Sebastian Review)

BFI(ロンドン映画祭) 学術的評価

映画情報サービスBFIの評論では、『SEBASTIAN セバスチャン』は「現代クィア映画の重要な例」として位置付けられている。特に注目されるのは、本作がいかに「セクシュアリティ」を単なる「性的表現」ではなく、「自己認識と社会的存在のあり方」として扱っているかという点である。

本作の導入部から終了部まで、マックスの心理的変化は、単なる「堕落」ではなく、むしろ「複雑な自己発見のプロセス」として描かれている。BFIの観点からは、本作は「個人のセクシュアルアイデンティティが、いかに社会的な文脈のなかで構築されるのか」について映像化した重要な作品である。

評価点 本作は、国際的な映画祭での上映資格を十分に満たす芸術的価値を有していると評価されている。特に、インディペンデント制作でありながら、大規模予算の映画にも劣らない心理的深さと視覚的美しさを実現している点が評価されている。

批判点 ただし、本作の道徳的曖昧性は、一部の観客や評論家からは「倫理的に問題がある」と見なされる可能性があるという指摘がなされている。特に、マックスが最終的に「完全には改心しない」ことについて、「責任ある物語構造ではないのではないか」という議論も存在する。

(BFI Sebastian)

個人的な感想評価

『SEBASTIAN セバスチャン』は、確かに野心的であり、また同時に極めて危険な映画である。その「危険さ」の根源は、本作が「道徳的に簡潔な答え」を提供しないという点にある。ラストのあの言葉は、彼が自分のセバスチャンとしての過去について、もはや隠す必要がないと感じていることを示唆しているが、小説家としての経験者や傍観者から自身と向き合うことができた「人生が一巡した瞬間」を表現しているのだろう、あの瞬間に涙が出てきた。

ただ一つ確実なのは、マックスが「セバスチャン」という別人格を通じて、自分自身のセクシュアルアイデンティティと欲望と向き合う過程が、彼の創作に極めて個人的な真実性をもたらしたということ、そして同時にその過程が、彼の人生と人間関係に大きな代償をもたらしたが、大切なかけがえのないものを手に入れたマックスには幸せは小説家としての人生が待っていると私は想像できたこと。

本作は、創作への執着と個人的野心が交錯するとき、その過程で失われるものの大きさを、そして同時に獲得されるものの価値を、冷徹に描き出しているのだ。

マックスという人物は、映画の終わりに至っても「正しくない」。彼は他者を利用し、自らの野心のために危険な行為を続け、そして最終的には「解放」されているのではなく、むしろ自らの欲望に完全に屈服している可能性さえあるのだ。しかし同時に、彼は単なる「悪人」でもない。彼は苦悩し、葛藤し、そして自らの行為の倫理性について深く思考している。

海外の各レビューサイトで指摘されている通り、本作の最大の価値は「問題提起」にある。創作のための「真実」を求める行為は、どこまで許容されるのか。アーティストは、自らの体験を商品化する権利を有しているのか。セクシュアルアイデンティティの探求は、個人的な自由なのか、それとも社会的責任が伴うのか。これらの問いに対して、本作は「答え」を与えずに、むしろ問い続けるのだ。

ルアリッド・モリカの演技は、その複雑さを見事に体現している。彼は、マックスの傲慢さと感受性、野心と恐怖、強さと脆さを、均等なバランスで表現している。一方、ジョナサン・ハイドの演技は、本作における「救済」の可能性を示唆している。ニコラスという人物が、マックスに対して示す無条件的な愛情と尊重は、本作における数少ない「人間的な美しさ」の瞬間である。

ミッコ・メーケラ監督の手法は、インディペンデント映画の限界を認識しながらも、その限界を超えようとする努力が感じられる。ロンドンという都市が、単なる背景ではなく、登場人物たちの心理状態を象徴する舞台として機能している。色彩、照明、構図のすべてが、思慮深く配置されている。

まとめ

『SEBASTIAN セバスチャン』は、2024年の国際映画祭シーンにおいて、確かに重要な作品である。本作は、従来のクィア映画が陥りがちな「悲劇的なナラティブ」から脱却し、より複雑で、より曖昧な人間像を提示することに成功している。

映画の内容は、25歳の野心的な若き作家が、自らの創作のために性的アイデンティティの探求という危険な領域へ足を踏み入れるという、現代的で非常にセンシティブなテーマである。ネタバレを避けるために詳細は避けるが、本作は単なる「モラル・ストーリー」ではなく、むしろ「倫理的な問題提起」という性質を持つ。

海外評価は、IMDb 6.7点、Rotten Tomatoes 71%、Metacritic 53点と、明確に「分かれた」という結果になっている。これは、本作が「完璧な」映画ではなく、むしろ「議論の対象となるべき」映画であることを示唆している。批評家たちからは、ルアリッド・モリカの「ブレークスルー・パフォーマンス」と、ミッコ・メーケラ監督の「大胆な視点」に対する高い評価が寄せられている。一方で、物語構造の焦点の曖昧性、テーマの多元性による焦点の散漫さについての批判も存在する。

Sundance Film Festival 2024での初公開以来、本作は国際的な注目を集め、フィンランドのJussi Awards 9ノミネーション、英国Independent Film Awards最優秀新人賞ノミネーション、BAFTA Scotland 最優秀男優賞ノミネーションなど、複数の映画賞での高い評価を受けている。

『SEBASTIAN セバスチャン』の最大の価値は、セクシュアリティとアイデンティティについて、従来とは異なる視点から問題提起できたという点にあるだろう。本作は「答え」を与えるのではなく、むしろ観客に「問い続ける」ことを強要する。その不快さすら含めて、本作は現代映画における重要な一作であるといえるのだ。

日本未公開ではあるが、映画通であれば、確実に見るべき価値のある作品である。ただし、性的内容の露骨さ、心理的な重さ、そして倫理的な曖昧性を受け入れることができない観客にとっては、確かに「見るべきではない」映画かもしれない。しかし、それこそが本作の「問い」の核心なのである。

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